|
閉ぢたりし 岩間の氷 うち解けば をだえの水も 影見えじやは |
「岩間の氷が解ける春になれば、途絶えていた水の流れも姿を現すでしょう(わたしも再び出仕します)」 紫式部は、1005年(寛弘2年)12月29日に中宮・藤原彰子に仕えるようになったものの、ほどなくして自宅に引き篭もってしまう。 この歌は、自宅に帰ってから少し語り合った人に贈ったもの。 紫式部は、書いていた『源氏物語』が宮中で評判となり、藤原道長の推薦で出仕したとされている。 出仕するに当たっては、宮中で『源氏物語』が読まれているということもあって「みんなが歓迎してくれる」と思っていたかもしれないが・・・ 先輩女房たちからは「教養をひけらかす女」と誤解あるいは嫉妬され、「会っても無視、手紙を書いても無視」という状況だったらしい・・・ |
みやまべの 花吹きまがふ 谷風に 結びし水も 解けざらめやは |
「山辺の花を吹き散らす暖かな谷の風に、氷っていた水が溶けないことがありましょうか」 贈歌された人からの返歌。 この人物は自宅に帰って逢っていた恋愛関係にあった男性という説もあったようだが、宮中で語り合ったことのある同僚女房らしい。 歌の中の「谷風」は彰子のことで、「氷ってしまった心も彰子なら溶かすことができる」という意味なのだとか・・・ |
身のうさは 心のうちに したひきて いま九重に 思ひみだるる この歌は、彰子に仕えることになったときに詠んだ歌。 紫式部の越前下向を記念して整備された紫式部公園に歌碑が建てられている。 |
東三条院址 (京都) |
一条院跡 (京都) |
1005年(寛弘2年)11月、平安宮の内裏が焼失してしまっているため、一条天皇は東三条院に遷った後、翌年、一条院に遷御している。 その後、内裏が再建されるが一条天皇は還御しなかったのだという。 紫式部が初出仕した場所は、寛弘2年ならば東三条院、寛弘3年ならば一条院ということになる。 『紫式部日記』に登場する内裏は一条院のこと。 |
廬山寺は、紫式部の邸跡に建てられた寺。 通説によると、紫式部が彰子に仕えるようになったのは1005年(寛弘2年)12月29日(寛弘3年とする説も有力。)。 出仕後、ほどなくして自宅に帰ってしまった紫式部は、翌年正月10日に「春の歌を献上せよ」と命じられている。 その後、5か月も引き篭もっていたらしいが再び出仕すると、教養のない女を演じ始めたのだとか。 |
紫式部の歌~春の歌を献上するよう命じられて~ 紫式部の歌~出仕を促す宮の弁のおもととの贈答歌~ 紫式部の歌~端午の節句に薬玉を贈ってくれた人との贈答歌~ |
紫式部は、内裏の女房・橘隆子(左衛門の内侍)に「学識を鼻にかけている」と陰口を叩かれていたらしい。 そのため無学を装い、清少納言のように自己の才能を人前で発揮するようなことはしないと決めたのだとか。 |
紫式部の歌~先輩女房から陰口を言われて詠んだ歌~ |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|