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みよしのは 春のけしきに 霞めども 結ぼほれたる 雪の下草 |
「吉野山は春らしく霞んでいるけれど 雪に隠れた下草は凍り付いたまま(わたしは心は凍りついたまま)」 年末に中宮・藤原彰子に仕えることになったが、ほどなくして自宅に引き篭もってしまう紫式部。 この歌は、正月十日ごろに「春の歌を献上せよ」との命があったので、自宅で詠んだもの。 「雪の下草」は出仕できないで自宅に引きこもる紫式部自身のことらしい。 通説によると、紫式部が彰子に仕えるようになったのは1005年(寛弘2年)12月29日とされているが・・・ 日については、『紫式部日記』にも12月29日と記されているので間違いない。 ただ、寛弘4年1月10日が立春だったのだという。 そのため、年については寛弘3年とする説がある。 |
女房たちと語りながら歳末の夜を過ごす |
これは『紫式部日記絵巻』の場面。 1008年(寛弘5年)12月29日、自宅から宮中に戻ったときの様子。 『紫式部日記』には、同じ日に初めて宮中に参上したと記されている。 |
廬山寺は、紫式部の邸跡に建てられた寺。 12月29日、中宮・藤原彰子に仕え始めた紫式部は、先輩女房たちの嫌がらせにあい、ほどなくして自宅に引き篭もってしまったのだという。 |
紫式部の歌~出仕後すぐに里下がりした時の歌~ 紫式部の歌~出仕を促す宮の弁のおもととの贈答歌~ 紫式部の歌~先輩女房から陰口を言われて詠んだ歌~ 紫式部の歌~端午の節句に薬玉を贈ってくれた人との贈答歌~ |
吉野山は、源頼朝に追われた源義経が身を隠し、愛妾の静御前と別れた地として知られている。 紫式部の夫・藤原宣孝は、金峯山寺を参拝した御利益で筑前守に任官されたのだとか・・・ 清少納言の『枕草子』には、その時の様子が書かれている。 |
『枕草子』:藤原宣孝の逸話~清少納言と紫式部~ |
金峯山寺 |
金峯神社 |
藤原道長は、自ら書写した法華経などを金峯山(山上の蔵王堂)に埋納し、その御利益で彰子が懐妊したのだとか。 金峯神社に伝わる経筒は、金峯山から出土したもので国宝。 2024年(令和6年)には、金峯神社と金峯山寺が所有する道長直筆の「金峯山経塚出土紺紙金字経」が国宝に指定された。 |
藤原道長の御嶽詣~彰子の男児出産を願っての金峯山参詣か?~ 国宝に指定された藤原道長直筆の経巻~吉野山:金峯神社・金峯山寺~ |
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