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女房たちと語りながら歳末の夜を過ごす紫式部 『紫式部日記絵巻』 |
1008年(寛弘5年)12月29日、紫式部が実家から宮中(一条院)に参上。 初めて宮中に参上したのも今夜のことで 「あの時は夢の中を彷徨うようにうろたえていた」と思い出してみると、 「今ではすっかり慣れてしまい、うとましい身の上であることよ」と思ったのだとか・・・ 夜もたいそうふけてしまい、中宮藤原彰子は御物忌みだったので御前にも参上せずに、心細い気持ちで横になっていると、同室の女房たちが、 「宮中あたりは、やはり雰囲気が違いますねぇ。 実家では今ごろはもう寝てしまっていますでしょうに。 それにしても目を覚まさせる沓音が絶え間ないことですね」 などと言っているのを聞きながら・・・ 年暮れて わがよふけゆく 風の音に 心のうちの すさまじきかな 「今年も暮れて、私の年齢も一つ加わるが、夜更けの風の音を聞くと心が荒れて寂しい」 と、つい独り言を行ってしまうのだった。 |
翌30日は大晦日。 追儺の儀が終わった夜、弁内侍らと部屋でくつろいでいると、中宮彰子の部屋から悲鳴が聞こえたので行ってみると、2人の女房が身ぐるみをはがされていた。 警備の者たちは帰宅してしまい誰も来ない。 紫式部は、弟の藤原惟規を呼びにやらせたが、いるはずの惟規も帰ってしまっていたのだとか。 『紫式部日記』には 「情けないことこの上ない」と記されている。 |
廬山寺は紫式部の邸跡に建てられた寺。 |
1005年(寛弘2年)に内裏が焼失してしまっているため、一条天皇は一条院に遷御。 その後、内裏が再建されるが一条天皇は還御しなかったのだという。 中宮・藤原彰子に仕えていた紫式部も一条院に出仕していた。 |
身のうさは 心のうちに したひきて いま九重に 思ひみだるる 彰子に仕えることになった紫式部が詠んだ歌。 紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された紫式部公園に紫式部歌碑が建てられている。 通説によると、紫式部が彰子に仕えるようになったのは1005年(寛弘2年)12月29日。 ただ、寛弘3年とする説も有力。 |
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越前武生を流れる河濯川に架かる七つの橋のレリーフ。 |
越前市東千福町20 武生駅から白山行き福鉄バス 「紫式部公園口」下車 市民バス市街地循環南ルート 「紫式部公園」下車 |
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