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みづうみに 友よぶ千鳥 ことならば 八十の湊に 声絶えなせそ |
「湖で友を呼ぶ千鳥さん、それならいっそ、いろんな湊であちこちの女に声をかけたら・・・」 近江守の娘に思いをかけているという噂の男が「二心はありません」などと言うので、うっとうしくて返した歌なのだとか。 男とは、紫式部に求婚していた藤原宣孝らしい。 紫式部に求婚しているにもかかわらず、近江守の娘にも懸想していた・・・ |
四方の海に 塩やく海人の 心から やくとはかかる なげきをやつむ |
「あちこちの海で塩を焼く漁師が投げ木を積むように、あなたは自分からいろんな人に言い寄っては嘆いてるんじゃないの」 宣孝が歌絵に、漁師が塩を焼いている絵を描いて贈ってきたので、積み上げられた投げ木のそばに歌を書いて返してやったのだとか・・・ 「投げ木」は塩を焼くための薪。 「投げ木」と「嘆き」を懸けている。 |
くれなゐの 涙ぞいとど うとまるる うつる心の 色に見ゆれば |
「紅の涙がいよいよ疎ましい。変色しやすい紅が、あなたの移り気な心の色に見えるから」 宣孝が手紙の上に、朱というものを注ぎかけて「この涙の色を見て下さい」と書いてきたので返した歌なのだとか。 |
何時頃から藤原宣孝から求婚されていたのかはわからないが、『紫式部集』には方違えで紫式部邸に泊まった男に贈った歌が載せられている。 この男が宣孝かどうかは定かではないが・・・ |
紫式部の歌~方違えで泊まっていった男は藤原宣孝?~ |
方違え~方位神のいる方角を避ける陰陽道の信仰~ |
藤原宣孝は、996年(長徳2年)に越前国へ下向した紫式部のもとに求婚の手紙を贈り、その後も幾度となく手紙を書いていたらしい。 しかし、紫式部はその度に拒否の歌を返している。 宣孝は紫式部より20歳ほども年長で、何人もの女性と結婚していて、紫式部と同年代の息子もいた。 紫式部が父の藤原為時に同行して越前に下向した理由には、「宣孝の求婚を冷静に考えるため」ということもあったのだといわれる。 |
紫式部公園 (越前市) |
紫式部歌碑 (紫式部公園) |
紫式部公園は、紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された公園。 園内には、金色の紫式部像が建てられ、その周辺に建てられた紫式部歌碑の中には藤原宣孝への歌もある。 「春なれど 白嶺の深雪 いや積り 解くべきほどの いつとなきかな」 |
紫式部が越前国から帰京したのは、997年(長徳3年)秋から翌年の春にかけてと言われている。 998年(長徳4年)の夏には、藤原宣孝と直に話をするようになり、お互いの気持ちも理解できるようになったらしい。 |
紫式部の歌~藤原宣孝と結婚する紫式部が詠んだ歌~ |
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