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三条天皇は冷泉天皇の第二皇子。 母は藤原兼家の長女・藤原超子。 1011年(寛弘8年)に即位するが、眼病を患い、藤原道長に退位を迫られ、1016年(長和5年)に譲位。 1017年(寛仁元年)5月9日、崩御(42歳)。 |
三条天皇は、鹿苑寺の北の巌陰で火葬されたのだという。 |
三条天皇は、退位直前、明るく輝く月を見て 「心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな」 という無念さが垣間見られる歌を詠んだ。 |
三条天皇の歌~夜半の月・百人一首収録歌~ |
そして、対立していた道長は、三条天皇亡き後、三后のすべてを我が娘で占めるという前代未聞の偉業を達成(太皇太后・彰子、皇太后・妍子、皇后・威子)。 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」 と詠んだのだという。 |
望月の歌~三后を娘たちで占めた藤原道長の栄華と紫式部の歌 |
藤原超子は、東三条殿(東三条院)で三条天皇を出産。 藤原詮子も一条天皇を産んでいる。 三条天皇の中宮・藤原妍子の御所、一条天皇の中宮・藤原彰子が産んだ後朱雀天皇の里内裏としても使用された。 |
枇杷殿は、中宮・藤原妍子が里内裏として使用した邸宅。 三条天皇も内裏が焼失した際には遷御している。 |
高松神明神社は、源高明が造営した高松殿の鎮守。 藤原道長と結婚した高明の娘明子は、ここに住んで高松殿と呼ばれた。 三条天皇の皇子・敦明親王の御所ともなり、道長の娘で敦明親王の妃となった寛子は、高松殿女御と呼ばれている。 |
大極殿は、平安京の大内裏(平安宮・宮城)にあった朝堂院の正殿。 伊勢神宮に奉仕する斎王(斎宮)は、伊勢に赴く際、大極殿で天皇から「別れの御櫛」を挿してもらったのだという。 1014年(長和3年)9月20日、三条天皇の第一皇女・当子内親王が斎王(斎宮)として伊勢へ赴くことに。 「別れの御櫛」に臨んだ三条天皇は、互いに振り返ってはならない決まりにもかかわらず、別れがたさから思わず振り返ってしまったのだとか。 |
斎宮邸は、斎王(斎宮)の居所で、西京高校がその跡地の一つとされている。 |
藤原妍子が産んだ第三皇女の禎子内親王は、後朱雀天皇の皇后となった。 龍安寺内には、後朱雀天皇の円乗寺陵と禎子内親王の円乗寺東陵がある。 |
京都市北区衣笠西尊上院町 |
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