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鎌倉の寺院・神社に関する記述について,最も適当なものを 1 〜 4 から選びなさい。 |
(36) | かつては,離婚を望む女性の「縁切り寺」,「駆け込み寺」として知られ,今は多くの文化 ・知識人の墓がある寺はどこか。 |
1 建長寺 2 東慶寺 3 浄智寺 4 円覚寺 |
夫の横暴に泣く女性救済のための「縁切寺法」が定められ、多くの女性が救われた寺。 |
東慶寺は、八代執権北条時宗の妻覚山尼によって開かれました。 開山覚山尼、五世用堂尼、二十世天秀尼、釈宗演などの歴代住職の墓のほか、 哲学者の西田幾多郎、和辻哲郎、作家高見順、岩波書店創業者岩波茂雄らの墓があります。 |
女性を救った駆け込み寺 (大名を罰した天秀尼) 天秀尼の念持仏〜阿弥陀如来立像〜 |
(37) | 光照寺の山門の欄間に掲げられているのは何か。 |
1 北条氏の家紋 2 クルス紋 3 七宝紋 4 源氏の家紋 |
光照寺には、隠れキリシタンを庇護していたという伝承があります。 |
光照寺の山門は、九州豊後国の岡藩主中川家の紋「中川クルス」(十字架を変形させた紋)が掲げられていることから「クルス門」と呼ばれています。 |
(38) | 「大覚禅師」という日本初の禅師号を与えられた僧とはだれか。 |
1 栄西 2 道元 3 蘭渓道隆 4 夢窓疎石 |
中国(宋)の禅僧で、北条時頼によって建長寺の開山に迎えられた蘭渓道隆は、死後、後宇多天皇より初の禅師号を賜っています。 |
建長寺 |
建長寺開山忌 |
建長寺は、蘭渓道隆が開いた日本で初めての「禅専門道場」。 道隆は宋で修行していた京都の泉涌寺の月翁智鏡との出会いが縁で来日。 鎌倉へ下り、壽福寺に仮寓した後、常楽寺で禅を広めました。 伊豆の修禅寺・京都の建仁寺・甲斐の東光寺・鎌倉の禅興寺(明月院)にも住しています。 7月には道隆の大法要が営まれます(開山忌)。 |
(39) | 源実朝に,健康に良いと茶を飲むように勧め,茶の薬としての効能を説明する書物を献呈し,北条政子に壽福寺の開山として招かれた僧はだれか。 |
1 道元 2 栄西 3 日蓮 4 親鸞 |
壽福寺には我が国臨済宗の開祖栄西によって書かれた『喫茶養生記』が伝えられています。 栄西は、三代将軍源実朝が二日酔いで苦しんでいる時に、茶の効用を説いて茶をすすめ、『喫茶養生記』を献上したのだとか。 |
壽福寺は、源義朝の旧跡に北条政子が創建したといわれる寺。 開山には栄西が迎えられました。 |
(40) | 現在の英勝寺の地に居を構えていたとされる,開基の英勝院尼の先祖にあたる人物はだれか。 |
1 比企能員 2 足利貞氏 3 太田道灌 4 上杉憲方 |
英勝寺開基の英勝院尼は、扇谷上杉氏に仕えた太田道灌から数えて四代の孫康資の娘。 |
英勝寺 |
太田道灌首塚 |
英勝寺は、鎌倉で唯一の尼寺。 裏山には太田道灌の首塚があります。 道灌は、扇谷上杉家に仕え、数々の戦に功績を残し、江戸城や河越城を築いたことでも知られています。 しかし、その能力を恐れた上杉定正によって粕屋の館(伊勢原市)で暗殺されました。 |
(41) | 檀家を持たず,安産祈願で有名な「おんめさま」の名で親しまれている寺院はどこか。 |
1 大寶寺 2 薬王寺 3 大巧寺 4 圓久寺 |
大巧寺の産女霊神は「おんめさま」と呼ばれ、安産の神として信仰されています。 |
大巧寺は、もとは十二所の梶原景時の屋敷内にあって「大行寺」という名でしたが・・・ 源頼朝が戦評定を行い大勝を収めたことから「大巧寺」と改められたのだといいます。 |
(42) | 坂東三十三観音霊場・鎌倉三十三観音霊場の一番目の札所となっている寺院はどこか。 |
1 安養院 2 長谷寺 3 報国寺 4 杉本寺 |
坂東三十三箇所は、源頼朝の観音信仰と、源平の戦いで西国に赴いた武者たちが西国三十三箇所の霊場を観たことで、鎌倉時代初期の開設につながったのだといわれています。 |
杉本寺 |
岩殿寺 |
杉本寺は、坂東三十三箇所第一番札所。 二番札所は逗子の岩殿寺 |
安養院 |
長谷寺 |
三番札所は安養院、四番札所は長谷寺。 |
四万六千日は、観音さまの縁日(鎌倉は8月10日)。 坂東札所の杉本寺、安養院、長谷寺は、早朝から開門され、多くの参拝者が訪れます。 |
(43) | 妙本寺と縁の深く,かつてはその一族の邸宅跡であり,彼らの供養塔もある。その一族とは何氏か。 |
1 畠山氏 2 三浦氏 3 北条氏 4 比企氏 |
妙本寺があるのは比企ヶ谷。 |
妙本寺のある比企ヶ谷は、源頼朝が乳母の比企尼を迎え入れた場所 御家人比企能員の屋敷もここにありました。 |
そして、妙本寺は比企一族滅亡の地でもあります。 |
(44) | 上行寺の稲荷堂に祀られている瘡守稲荷は,何の病気に特効があるといわれているか。 |
1 切り傷 2 癌 3 腫れ物 4 にきび |
上行寺の本堂右手の堂には、身がわり鬼子母神と癌封じの瘡守稲荷が祀られています。 |
北条政子は源頼朝の「おでき」を治すため上行寺の瘡守稲荷に参拝したのだか。 |
(45) | 鎌倉攻めの戦没者を慰霊するために,新田義貞が鎌倉で唯一建立した寺はどこか。 |
1 長勝寺 2 九品寺 3 實相寺 4 向福寺 |
1333年(元弘3年)5月21日、稲村ヶ崎を突破して鎌倉に攻め込んだ新田義貞が本陣とした場所は九品寺が建つ地。 |
九品寺の山門に掲げられている「内裏山」と本堂に掲げられている「九品寺」の額は、義貞の筆蹟と伝えられています。 |
(46) | 戦後間もなく,鎌倉在住の作家や文化人が教授となり,新しい時代の教育を目指して設けられた鎌倉アカデミアがあったのはどこか。 |
1 光明寺 2 建長寺 3 円覚寺 4 鶴岡八幡宮 |
鎌倉アカデミアは、 1946年(昭和21年)5月、光明寺の境内に開校した自由大学。 |
光明寺 |
鎌倉アカデミア |
(47) | 彫像としては鎌倉唯一の国宝である阿弥陀如来坐像がある寺はどこか。 |
1 極楽寺 2 長谷寺 3 高徳院 4 円覚寺 |
鎌倉の仏像で唯一国宝に指定されているのは鎌倉大仏。 |
鎌倉大仏は、高徳院の本尊で青銅製の「阿弥陀如来坐像」。 1195年(建久6年)、東大寺の大仏殿の落慶供養に参列し、東大寺の大仏を見た源頼朝は、東国にも大仏を造りたいと願っていたのだとか。 |
(48) | 源義経が兄源頼朝の怒りを解くために,その重臣に力添えを依頼しようとして送った書簡の写しが残されている満福寺があるのはどこか。 |
1 津西 2 腰越 3 手広 4 関谷 |
壇ノ浦戦いで平家を滅ぼした源義経は、捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して鎌倉へ凱旋しようとしますが・・・ 兄頼朝の機嫌を損ねていたため鎌倉に入ることができず腰越に留め置かれました。 |
満福寺 |
腰越状 |
義経は腰越の満福寺で弁明の手紙「腰越状」を書いて大江広元に送りますが、頼朝に許されることはありませんでした。 |
(49) | 空海が岩肌に穴をうがって湧き出たと伝わる男滝と女滝が残る稱名寺は何という名で親しまれているか。 |
1 鎖大師 2 元建長寺 3 今泉不動 4 ぼたもち寺 |
空海(弘法大師)が開いたという稱名寺は今泉にあります。 |
稱名寺 |
陰陽の滝 (男滝と女滝) |
稱名寺の不動堂には鎌倉幕府の歴代将軍が信仰したという不動明王が祀られ、不動堂の背後には、石造の大日如来と三十六童子像が置かれています。 陰陽の滝(男滝と女滝)は、弘法大師の伝説が残された滝。 かつては、この滝に打たれて水垢離をする人が多くいたのだとか。 |
(50) | 鎌倉七福神のうち,本覚寺に祀られているのは何か。 |
1 寿老人 2 福禄寿 3 大黒天 4 恵比寿 |
本覚寺の福神は恵比寿。 寿老人は妙隆寺、福禄寿は御霊神社、大黒天は長谷寺に祀られています。 |
本覚寺 |
本覚寺の地は、源頼朝が幕府の鬼門除けのために夷神を祀ったという夷堂があった所。 正月のは多くの参拝者で賑わいます。 |
(51) | 次のうちで鶴岡八幡宮の祭神でないのはどれか。 |
1 応神天皇 2 神功皇后 3 天照大神 4 比売神 |
鶴岡八幡宮の本宮に祀られているのは、八幡神と呼ばれた応神天皇。 その母・神功皇后。 主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指す比売神。 石清水八幡宮では、宗像三女神を祭神として祀っています。 天照大神は鎌倉検定によく出てきますが、甘縄神明神社の祭神。 |
鶴岡八幡宮 |
本宮 |
鶴岡八幡宮は、源頼朝の先祖源頼義が「源氏の氏神」である京都の石清水八幡宮を勧請したことに始まります。 本宮(上宮)の回廊には神輿7基(本宮3基・若宮4基)が安置されています。 |
鶴岡八幡宮例祭 |
神輿 |
本宮の神輿3基は、9月の例大祭で行われる神幸祭で二の鳥居まで渡御します。 鳳凰の輿が応神天皇、宝珠の輿が比売神、菊の輿が神功皇后。 |
(52) | 前九年合戦の武勲によって,関東に源氏の勢力を伸ばし,京都の石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請して神社を祀った人物はだれか。 |
1 源義家 2 源義光 3 源義朝 4 源頼義 |
1031年(長元3年)、父とともに平忠常の乱を鎮圧した源頼義は、その武勇に感じ入った平直方から鎌倉の地を譲られます。 鎌倉を東国支配の拠点とした頼義は、1162年(康平5年)に前九年の役を鎮めました。 その感謝のため、源氏の氏神だった京都の石清水八幡宮を由比郷に勧請したのだといいます。 |
源頼義が創建した社は由比若宮と呼ばれました。 1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をして鎌倉に入った源頼朝は、由比若宮を由比郷から小林郷北山に遷座。 それが現在の鶴岡八幡宮。 |
1027年(万寿4年)12月4日、摂関政治の最盛期を築いた藤原道長が死去。 同日、道長を支えてきた藤原行成も死去。 政権が不安定となる中、安房国で反乱を起こしたのが平忠常。 1028年(長元元年)6月、忠常は安房国府を襲撃。 反乱は、下総国・上総国にも広がり、平将門の反乱以来の大規模なものとなりました。 忠常は、坂東八平氏の祖・平良文の孫。 母は平将門の娘。 乱を鎮圧したのは、河内源氏の祖・源頼信。 頼信が東国支配の礎を築いたことで、武士が本格的に表舞台に登場することとなります。 源頼朝の挙兵に参じた千葉常胤と上総広常は、忠常の子孫。 |
(53) | 鎌倉宮は祭神に因んで何と呼ばれることがあるか。 |
1 相馬天王 2 新宮社 3 大塔宮 4 お天王さん |
鎌倉宮の祭神は護良親王。 護良親王は6歳の頃に梶井門跡(現在の三千院)に入室し、1327年(嘉暦2年)には、天台座主となって大塔宮と敬称されました。 |
鎌倉宮 |
護良親王 |
鎌倉宮は、明治天皇が護良親王を祀るために建てた神社。 |
大塔宮と呼ばれた護良親王〜なぜ大塔宮なのか?〜 |
(54) | 法華堂跡に近い,西御門の白旗神社の祭神はだれか。 |
1 源頼義 2 源義家 3 源義光 4 源頼朝 |
西御門の白旗神社は、源頼朝墓の下にある社。 |
源頼朝墓 |
白旗神社 |
法華堂跡は、大倉幕府跡の裏山にある源頼朝墓を中心とする史跡。 頼朝墓の下には江戸時代まで法華堂がありましたが、明治の神仏分離により廃され、源頼朝を祀る白旗神社が創建されました。 |
(55) | 「権五郎神社」ともよばれる神社はどこか。 |
1 巽神社 2 御霊神社(坂ノ下) 3 熊野神社 4 小動神社 |
権五郎とは、平安時代に大庭御厨を開発した鎌倉権五郎景政のこと。 |
坂ノ下の御霊神社は景政の屋敷跡と伝えられています。 右目に矢を受けながらも奮戦した景政と、景政の右目を射た鳥海保則の子孫の伝説が残されています。 |
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