鎌倉手帳(寺社散策)

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妙 隆 寺
=鍋かむり日親=

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妙隆寺


 日蓮辻説法跡のすぐ近くにある妙隆寺(日蓮宗)。

 1427年(応永34年)の創建。

 千葉常胤の子孫胤貞の別邸があったことから「千葉屋敷」とも呼ばれ、鎌倉における中山門流の中心だった。

 二代日親は、生爪をはがした血で墨をすり曼荼羅を描いたという人物。

 1439年(永享11年)、「立正治国論」を室町幕府第六代将軍足利義教に建白したが、捕らえられ灼熱の鍋を被せられたのだという。

 境内には日親が水行したとされる池が残されている。

 墓地には、新劇界の團十郎といわれる丸山定夫の供養碑がある。


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開山 日英
開基 千葉胤貞
本尊 釈迦牟尼仏


 中山門流は、千葉県の法華経寺(中山法華経寺とも呼ばれている。)を総本山とする日蓮宗派の一つ。
 妙隆寺の開山には、法華経寺から日英が迎えられた。二代日親は、日英の甥といわれている。









妙隆寺日親像
鍋かむり日親

 二代日親は、開山の日英の甥にあたる。

 1440年(永享12年)、室町幕府六代将軍足利義教に対し、将軍家の日蓮宗への改宗を試み、『立証治国論』を直訴したが、灼熱の鍋を被せられる拷問を受けたという。

 その鍋は一生取れなかったともいわれている。

 拷問を受けても所信を曲げない人物であったらしい。



日親百日水行の池
日親百日水行の池

 1427年(応永34年)冬、「大法弘通に耐え得るや否や、自らの忍力を試さん」として、この池で100日間の水行を行ったといわれている。



丸山定夫の碑
丸山定夫の碑

 新劇の團十郎と称された大正・昭和期の俳優。

 1945年(昭和20年)8月6日に広島に投下された原子爆弾に被爆し、原爆症がもとで亡くなっている。

 1966(昭和41年)、妙隆寺にアルパゴンを演じる丸山の肖像を刻んだ墓碑が建てられた。

 碑文は藤森成吉によるもの。





妙隆寺寿老人
石造寿老人
歴代住職の墓
歴代住職の墓


妙隆寺の紋
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寿老人
リンクボタン寿老人





妙隆寺のフヨウ
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妙隆寺のサルスベリ
リンクボタンサルスベリ


妙隆寺の桜
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妙隆寺
妙隆寺

鎌倉市小町2−17−20
0467(23)3195

鎌倉駅東口から徒歩12分


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