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日蓮宗(法華宗)を開き、1254年(建長6年)、鎌倉に入った日蓮は、松葉ヶ谷に草庵をむすび、小町大路を中心に辻説法を行った。 日蓮は、この場所で熱心に法華経の布教に努め、他宗を「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」として厳しく批判した。 辻説法跡碑は、日蓮信者の田中智学が整備したもの。 智学の研究によると、実際に日蓮が辻説法を行ったのは、蛭子神社のある辺りとされている。 大町の本興寺も日蓮が辻説法を行った場所とされ、「日蓮辻説法の碑」が建てられている。 |
立正安国論 |
※ | 日蓮は、『立正安国論』で元寇(蒙古襲来)を予言したとして知られている。 |
この辺りは、幕府に近いこともあって大変賑わっていた場所と考えられ、日蓮は毎日のように辻に立って、民衆への布教を続けたといわれている。 日蓮が辻説法を行った小町大路沿いや草庵を結んだ大町・名越には、日蓮宗の寺が多く建てられ、鎌倉が政治の中心から離れた室町時代以降も熱心な信者のおかげで、今日でも多くの寺院が残されている(参考:鎌倉の日蓮宗の寺)。 |
小町大路の歴史散策 |
田中智学は、日蓮の腰掛石が路傍に捨て置かれている様を見て、日蓮の旧蹟復興を考えた。 扇ヶ谷に別荘を構え、旧蹟地の限定に努めた結果、夷堂(現蛭子神社)辺りと推測されたが、その辺りには場所がなかったため、現在地に腰掛石を安置したのだという。 小町大路には、多くの日蓮宗寺院が並んでいるが、昔は妙勝寺という寺もあって、日蓮腰掛石が置かれていたことで知られていた。 しかし、妙勝寺が福島県へ移動すると腰掛石は路傍に置かれたままとなっていた。 腰掛石を中心とした日蓮上人辻説法跡の旧蹟は、1901年(明治34年)に完成している。 |
「鎌倉日蓮堂」は、辻説法跡の隣地に建てられた日蓮宗の施設。 |
松葉ヶ谷法難 ◎小松原法難 |
伊豆法難 龍ノ口法難 |
十四代執権北条高時は、日蓮の弟子の日朗に、幕府殿中で諸宗派との問答対決をするよう命じた。 しかし、日朗は、高齢のため門下の日印を討論に向わせ問答対決を行わせることとした。 日印は、諸宗派をことごとく論破し、高時より「題目宗」の布教を許されたという(題目=南無妙法蓮華経) |
鎌倉市小町2丁目 鎌倉駅東口から徒歩10分 |
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