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1254年(建長6年)、鎌倉に入った日蓮は、松葉ヶ谷に草庵を結んだ。 日蓮は、小町大路を中心に布教活動を行い、弟子には、のちに日蓮六老僧といわれる日昭と日朗がいた。 1260年(文応元年)7月16日、日蓮は松葉ヶ谷の草庵で書き上げた『立正安国論』を北条時頼に提出する。 その冒頭には・・・ 「天変、地妖、飢饉、疫病あまねく天下に満ち、広く地上にはびこる。 牛馬巷にたおれ、骸骨路に充てり、死を招くの輩既に大半をこえ、これを悲しまざるの族敢えて一人もなし」 と書かれ、このような事が起こるのは法華経を信じないからだとし、人々を惑わす法然の念仏宗などを禁じなければ、外国からの侵略や内乱が起こると予言した。 しかし、これが原因となって、8月27日夜、草庵が念仏信者らによって焼き討ちされ、下総国へ避難する(松葉ヶ谷法難)。 襲撃を企てた者の中には、北条重時、六代執権の北条長時、極楽寺の忍性、光明寺の然阿良忠、建長寺の蘭渓道隆もいたという。 |
※ | 大町の妙法寺・安国論寺、そして材木座の長勝寺が松葉ヶ谷草庵があった場所としているが、何処にあったのかは特定されてはいない。 |
草庵を焼き討ちされた日蓮は、どこからともなく現れた白猿に導かれ、「お猿畠」に避難したのだという(法性寺)。 そのとき、白猿が日蓮に「お猿畠」の生姜を捧げたという伝説から、妙法寺では「厄除け生姜供養」が行われている。 |
日蓮の前に現れたのは、かつて修行した比叡山の山王権現(日吉大社)の白猿だった・・・。 |
南面窟 (安国論寺) |
日蓮の岩窟 (法性寺) |
松葉ヶ谷法難 ◎小松原法難 |
伊豆法難 龍ノ口法難 |
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