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〜鎌倉権五郎景政の武勇伝〜 |
『奥州後三年記』によると・・・ 相模国の鎌倉権五郎景政は先祖より聞えた兵(つわもの)。 わずかか16歳で大軍を前にして命を捨てて戦うが、征矢(せや)で右目を射られてしまう。 ※征矢:戦闘用の矢。 その矢は首を貫いて兜の鉢付の板に達していた。 それでも矢を射て敵を討ち取る奮戦をみせた景政だったが、陣に帰えると仰向けに倒れてしまう。 三浦為継が景政の顔を踏んで矢を抜こうとすると、景政は倒れ伏したまま刀を抜いて、為継の草摺(くさずり)を掴んで突こうとする。 為継が驚いて「何をする!」と言うと、 景政は 「弓箭(きゅうせん)にあたって死ぬことは、武人として望むところであるが、生きながら他人の足でこの面を踏まれることは我慢ならない。 お前を仇として、我もここで死ぬつもりだ」 と答えた。 言葉を失った為継は、膝をかがめて顔をおさえて矢を抜いたのだという。 多くの者がこれを見聞きして「景政の功名並ぶものなし」と語り合ったのだとか・・・ |
〜祟られた奥州からの旅人〜 |
奥州から鎌倉に来た旅人の伝説。 雪ノ下の宿をとって鎌倉見物をしていた旅人は、ある日、坂ノ下の御霊神社へ出かけた。 参拝のため神前に立った時の事。 右目に針を刺されたような痛みがはしった。 参拝もそこそこに宿へ帰り、医者に診てもらうのだが・・・ 旅人の右目の視力はどんどんと低下し、とうとう見えなくなってしまった。 嘆き悲しむ旅人が宿の主から聞いたのは、御霊神社が鎌倉権五郎景政を祀る社だということ。 実は、旅人の先祖は後三年の役で景政の左目を射た鳥海弥三郎保則。 景政の祟りに違いないと確信した旅人は、もう一時も鎌倉にいることができず、奥州へ帰って行ったのだとか・・・ |
浅草寺境内にある九代目團十郎の暫像は、団十郎が演じたの鎌倉権五郎景政の銅像。 『暫』(しばらく)は、歌舞伎の演目で歌舞伎十八番の一つ。 |
坂ノ下の御霊神社は、鎌倉権五郎景政を祀る。 景政の命日(9月18日)に行われる例祭では、神奈川県の民俗文化財に指定されている「面掛行列」が行われる。 |
鎌倉市坂ノ下4−9 0467(22)3251 江ノ電「長谷駅」から徒歩5分 |
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