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歴史・旧跡に関する記述について,最も適当なものを 1 ~ 4 から選びなさい。 |
(1) | 源頼朝が鎌倉の地に新邸を造営しようとしたとき,当初の候補地だったが,土地が狭く造営を断念したとされる父源義朝の館「鎌倉之楯」は,今のどこ付近と考えられるか。 |
1 荏柄天神社 2 宝戒寺 3 壽福寺 4 白旗神社 |
1180年(治承4年)10月6日、先鋒を畠山重忠、殿(しんがり)を千葉常胤がつとめた源頼朝の軍が相模国に入ります。 翌日、鎌倉に入った頼朝は、鶴岡八幡宮(由比若宮)を遙拝し、父源義朝の旧跡(現在の壽福寺辺り)を訪れています。 鎌倉七口の一つ亀ヶ谷坂は、鎌倉入りの際に使った道と伝えられます。 |
壽福寺は、頼朝の父義朝の屋敷(亀ヶ谷館)の跡に北条政子が創建した寺。 鎌倉に入った頼朝は、この地に御所を置こうと考えますが、土地が狭く、岡崎義実が建てた亡き父の御堂もあったことから、大倉の地を選んだのだといいます。 |
源義朝の旧跡に創建された寺 |
(2) | 時宗の開祖一遍の鎌倉入りを阻止したのは,だれの警護をしていた武士か。 |
1 北条時宗 3 北条貞時 |
2 北条時頼 4 北条高時 |
1282年(弘安5年)3月1日、一遍は巨福呂坂から鎌倉に入ろうとしますが、八代執権北条時宗に阻止されてしまいます。 その時の様子が藤沢の清浄光寺(遊行寺)に伝わる『一遍上人絵伝』に描かれています。 |
鎌倉入りを阻止された一遍は・・・ その晩は光照寺付近で野宿したと伝えられ、翌2日には「片瀬の館」で念仏を行っています。 |
(3) | 宝治合戦で敗れ,源頼朝の法華堂で一門300人あまりが自害したと伝わる一族の家紋はどれか。 |
宝治合戦は、北条時頼が三浦泰村とその一族を滅ぼした合戦。 三浦氏の家紋は「三浦三引」と呼ばれる横三引きの紋。 |
源頼朝の法華堂は、和田合戦時に源実朝が避難した場所。 宝治合戦では、北条時頼と戦って敗れた三浦泰村一族ら約500人が自刃した場所でもある(参考:三浦一族のやぐら)。 法華堂は、偉大な将軍源頼朝が祀られていたことから、ここに逃げ込めば、誰も攻め入ることはできなかった。 |
(4) | 勝長寿院の黄金の阿弥陀像を造仏するために,源頼朝に奈良から招かれたと伝えられる仏師はだれか。 |
1 運慶 3 快慶 |
2 成朝 4 定朝 |
勝長寿院は、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した寺院。 本堂(阿弥陀堂)には、宅間(藤原)為久による「浄土瑞相二十五菩薩像」(壁画)が描かれ、成朝(奈良仏師)によって彫られた「黄金の阿弥陀仏」が本尊として安置されました。 |
勝長寿院の造仏のため、頼朝は京都の仏師ではなく奈良の仏師を選びます。 それは平家をはじめとする旧勢力との関係が稀薄だったから。 奈良仏師は、平等院の阿弥陀如来坐像を造立した定朝の流れをくむ集団。 奈良仏師として知られるのは運慶ですが、系統や血筋を重視する頼朝は、傍流の運慶ではなく嫡流の成朝を選んだのではないかと考えられています。 頼朝が成朝に造仏を依頼したことで、東国と奈良仏師の関係が開かれ、北条時政は願成就院の諸仏制作を、和田義盛も浄楽寺の諸仏制作を運慶に依頼しています。 |
(5) | 太平寺は現在のどの地域にあったか。 |
1 大町 3 二階堂 |
2 小町 4 西御門 |
鎌倉尼五山第一位だった太平寺は、西御門の来迎寺裏のテニスコート辺りにあったといわれています。 |
(6) | 六地蔵には松尾芭蕉の「夏草やつわものどもが夢のあと」の句碑が建っているが,これを建てた俳人はだれか。 |
1 志太野坡 2 松尾百遊 3 宝井其角 4 森川許六 |
六地蔵の松尾芭蕉の句碑は、江戸時代に雪ノ下で旅館を経営していたという俳人・松尾百遊(本名:滝右衛門)が芭蕉を偲んで建てたものといわれています。 |
六地蔵 |
芭蕉句碑 (平泉) |
六地蔵の辺りは「芭蕉の辻」と呼ばれます。 「夏草や兵どもが夢のあと」は、源義経が最期を遂げた奥州平泉の高館(衣川館跡)で詠まれたもの。 |
(7) | 鎌倉十井のうち,この井戸の向かい側にあった観音堂に安置されていた観音像の頭は東京・人形町の大観音寺に移され本尊となっている。その井戸とはどれか。 |
1 星ノ井 2 泉ノ井 3 扇ノ井 4 鉄ノ井 |
東京人形町の大観音寺の本尊となっている観音像は、北条政子が創建したという新清水寺の本尊だった鉄観音の頭。 鉄観音の頭は小町通りの北の端にある鉄ノ井から出てきたのだとか。 |
鉄ノ井 |
鉄観音 (大観音寺本尊) |
(8) | 鎌倉五名水のうちで,1709年(宝永6)の「建長寺境内絵図」に描かれているのはどれか。 |
1 金龍水 2 不老水 3 日蓮乞水 4 梶原太刀洗水 |
建長寺境内にあったのは、金龍水と不老水。 金龍水は西外門の前にあったようです。 |
(9) | 次の橋のうち,鎌倉十橋に含まれないのはどれか。 |
1 華ノ橋 3 勝ノ橋 |
2 筋違橋 4 十王堂橋 |
(10) | 「唐糸やぐら」について,次の説明文で内容が正しいものはどれか。 |
1 | このやぐら群では鎌倉にあるほぼすべてのやぐら形式がみられる。 |
2 | 鎌倉時代のやぐら群で,内部に丸彫りの地蔵菩薩像があるものは「地蔵やぐら」ともい われる。 |
3 | 十六羅漢像の浮き彫りもあり,このやぐらが「羅漢洞」といわれるゆえんとなっている。 |
4 | 2010年(平成22)に「大町釈迦堂口遺跡」として国指定史跡となった。 |
1は天園ハイキングコース沿いにある百八やぐら。 2は葛原岡神社の北側にある瓜ヶ谷やぐら群。 3は明月院の明月院やぐら。 大町釈迦堂口遺跡は、釈迦堂切通の東側、衣張山西側中腹にある遺跡。 2008年(平成20年)の発掘調査までは、北条時政の名越邸跡とされてきました。 |
唐糸やぐらは、源頼朝の暗殺を企てた唐糸が幽閉されていたと伝えられるやぐら。 唐糸は木曽義仲の家臣・手塚光盛の娘。 |
(11) | 地名の由来について,次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 |
1 | 下馬は,鎌倉時代,鶴岡八幡宮に参拝するときに,貴人が神仏に敬意をはらってこの地で馬を下りることになっていたことが由来とされる。 |
2 | 大船は昔,粟船といい,粟を積んだ船が繋がれていたことが由来の一つとされる。 |
3 | 佐助は,佐介氏の祖である北条時盛が邸を構えたことが由来の一つとされる。 |
4 | 坂ノ下は,鎌倉七口の1つである大仏切通の下にある地域であることが由来とされる。 |
坂ノ下は極楽寺切通の下。 現在の下馬四ツ角から鶴岡八幡宮までは、馬の乗り入れが許されず、参拝するときは馬を下りていました。 大船の常楽寺の前身は、北条泰時が建てた粟船御堂。 佐助は、佐殿と呼ばれていた源頼朝を隠れ里の稲荷が助けたから呼ばれるようになったとも。 |
歴史・旧跡について関連あることがらの組み合わせとして誤っているものを 1 ~ 4 から選びなさい。 |
(12) | 有力御家人と終焉の地 |
1 和田義盛-由比ヶ浜 2 比企能員-常盤・北条時政邸 3 畠山重忠-武蔵国二俣川 4 梶原景時-駿河国清見関 |
1203年(建仁3年)9月2日、比企能員は北条時政の名越邸に呼び出されて暗殺されました。 1213年(建暦3年)5月2日、打倒北条義時の挙兵をした和田義盛は、翌日、由比ヶ浜で討たれました。 1205年(元久2年)6月22日、畠山重忠は北条時政の謀略で武蔵国二俣川で最期を遂げました。 1200年(正治2年)正月20日、梶原景時は上洛途上の駿河国清見関付近で在地武士と合戦となり討死しました。 |
(13) | 日蓮のゆかりの地とその所在地 |
1 | 日蓮乞水-雪ノ下 |
2 | 日蓮袈裟掛松-稲村ガ崎 |
3 | 田辺が池の雨乞い伝説-七里ガ浜 |
4 | 日蓮上人辻説法跡-小町 |
日蓮乞水は、日蓮が名越切通を越えて鎌倉に入った時に湧き出させた水。 |
日蓮乞水 |
日蓮袈裟掛松 |
霊光寺 (雨乞い伝説) |
辻説法跡 |
歴史・旧跡について,次の説明文の〔 〕に最も適当なものを 1 ~ 4 から選びなさい。 |
3 代執権北条泰時は,政務について,重要政策を有力御家人から構成される〔 (14) 〕 衆の合議によって決定することとし,武家最初の法令である〔 (15) 〕を制定した。また商業・交通について,〔 (16) 〕切通を開削して鎌倉と六浦を結ぶ通商路を整備したり, 勧進僧往阿弥陀仏が船着場としての築島を申請したのに応えて〔 (17) 〕の沿岸に和賀江嶋を築かせたりした。 |
(14) |
1 会合 2 連署 3 評定 4 引付 |
(15) |
1 永仁の徳政令 2 御成敗式目 3 建武式目 4 武家諸法度 |
(16) |
1 大仏 2 名越 3 極楽寺 4 朝夷奈 |
(17) |
1 七里ヶ浜 2 材木座 3 稲村ヶ崎 4 片瀬東浜 |
北条義時の跡を継いで三代執権となった北条泰時は、1225年(嘉禄元年)に連署と評定衆を設置。 連署は、幕府の公文書に執権とともに署名する者で北条時房を任命しました。 評定衆は、執権-連署の下に設置されし、三浦義村ら11人の者が選ばれました。 二代将軍・源頼家の時代に執られた宿老13人の合議制がその原型とされています。 1232年(貞永元年)には武家の法典「御成敗式目」を制定。 同年、材木座に築かせた和賀江嶋は現存する日本最古の築港。 1241年(仁治2年)には鎌倉と金沢(六浦)を結ぶ朝夷奈切通を開いています。 |
(14) 3 (15) 2 (16) 4 (17) 2 |
朝夷奈切通 |
和賀江嶋 |
後醍醐天皇により,鎌倉幕府打倒を計画した正中の変で,〔 (18) 〕は一度は許されたものの,再び倒幕を企て(元弘の変),鎌倉に護送され,仮粧坂に近い〔 (19) 〕で斬首さ れた。その刑場跡に建つ神社境内の宝篋印塔は,その墓といわれ,〔 (20) 〕である。 |
(18) |
1 高師冬 2 日野俊基 3 日野資朝 4 護良親王 |
(19) |
1 地獄谷 2 由比ヶ浜 3 御谷 4 葛原ヶ岡 |
(20) |
1 国指定史跡 2 国の重要文化財 3 県の重要文化財 4 市の重要文化財 |
1324年(正中元年)、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚。 側近の日野資朝と日野俊基が六波羅探題に捕らえられ、鎌倉へ送られています(正中の変)。 このときは、資朝が佐渡流罪、俊基は無罪放免、後醍醐天皇には何の処分もありませんでした。 後醍醐天皇はその後も倒幕を計画し、東大寺、興福寺、比叡山などに参詣しますが、1331年(元弘元年)、またもや計画が幕府に漏れ、円観・文観・忠円が六波羅探題に捕らえられ、鎌倉へ送られました(元弘の変)。 翌1332年(元弘2年)には、正中の変で佐渡流罪となっていた日野資朝が処刑され、元弘の変で再び捕えられて鎌倉に送られてきた日野俊基が葛原ヶ岡で処刑されています。 後醍醐天皇は隠岐流罪となりました。 |
(18) 2 (19) 4 (20) 1 |
葛原岡神社 |
日野俊基の墓 |
葛原岡神社は、日野俊基終焉の地に建てられた社。 境内の日野俊基の墓は国指定史跡。 |
後醍醐天皇の倒幕計画と日野俊基(正中の変・元弘の変) 後醍醐天皇の討幕計画と宝戒寺開山の円観慧鎮(元弘の変) |
自然・景観の問題 |
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