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1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の皇子以仁王は、源頼政の申し入れを受けて、源頼朝をはじめとする全国の源氏に平家打倒の令旨を発します。 |
4月27日、伊豆国の北条館に令旨が到着。 頼朝は水干に着替え、石清水八幡宮を遙拝した上で、謹んで開いて見たとのだいいます。 |
8月17日、頼朝は崇敬する三嶋社の祭礼の日を挙兵の日と定めます。 源平合戦の始まりです。 |
挙兵した頼朝の最初の標的は、伊豆国の目代山木兼隆。 山木館襲撃で兼隆を討った頼朝は、8月20日、相模国へ進軍。 軍勢ぞろいの地は、函南町の高源寺と伝えられています。 |
8月23日、石橋山に布陣した頼朝は、大庭景親・伊東祐親らと戦いますが大敗。 |
衣笠城では、畠山重忠・河越重頼・江戸重長に攻撃された三浦義明が討死。 |
石橋山の戦いで敗れた頼朝でしたが、箱根権現に匿ってもらった後、土肥実平の手引きで真鶴から安房国に渡って再挙。 |
10月2日には 、江戸川・隅田川を渡って武蔵国に入り、10月6日、鎌倉入りを果たします。 |
10月20日、甲斐の武田信義と連合した頼朝は、富士川の戦いで平家軍を敗走させます。 頼朝の挙兵に敵対した大庭景親と伊東祐親は富士川の戦いで捕えられています。 |
富士川の戦いに勝利した頼朝は、敵対する常陸国の佐竹氏を攻め、11月5日、上総広常の活躍で金砂城を落とします。 |
1181年(治承5年)、頼朝の叔父源行家が尾張で挙兵しますが、墨俣川の戦いで大敗し、頼朝の異母弟・義円が討死しました。 |
1183年(寿永2年)2月、頼朝の叔父志田義弘は、頼朝討滅を企てますが、野木宮合戦で敗走し、木曽義仲と合流しています。 |
1183年(寿永2年)12月、頼朝は挙兵に功のあった上総広常を梶原景時に命じて暗殺します。 |
1184年(寿永3年)1月20日、源範頼と源義経が木曽義仲を滅ぼします。 |
1184年(寿永3年)2月7日、範頼と義経が一ノ谷に拠る平家を攻めます。 |
1184年(寿永3年)4月26日、鎌倉に人質として置かれていた木曽義仲の嫡男義高が誅殺されます。 |
一ノ谷の戦い後に起こった伊賀・伊勢の平家残党の反乱を義経が鎮圧。 |
1185年(元暦元年)2月19日、屋島に拠る平家を義経が奇襲。 |
1185年(元暦元年)3月24日、壇ノ浦の戦いで平家滅亡。 |
義経は、壇ノ浦で捕えた平宗盛を護送して鎌倉に凱旋しようとしますが、頼朝は義経が鎌倉に入ることを許しませんでした。 |
京都に戻った義経は、叔父で頼朝から追討令が出されていた源行家に接近。 |
1185年(元暦2年)10月17日、頼朝の命で土佐坊昌俊が義経の堀川館を襲撃。 |
1185年(元暦2年)11月3日、義経は都を落ち、九州へ逃れようとしますが、11月6日、摂津国大物浦で難破。 四天王寺や住吉大社に滞在した後、吉野山へ。 その後は行方不明に。 |
1186年(文治2年) 4月8日、義経と吉野山で別れた静御前は、鎌倉の鶴岡八幡宮で義経を慕う舞を披露。 |
1189年(文治5年)閏4月30日、奥州平泉の衣川館で、源義経自刃! |
1189年(文治5年)9月3日、奥州平泉の藤原泰衡が討たれたことで、奥州藤原氏が滅亡。 |
富士裾野の巻狩りは、1193年(建久4年)、征夷大将軍となった頼朝が催した大軍事演習。 |
巻狩りの最中に起こったのが曽我兄弟の仇討ち。 曽我兄弟が父の仇工藤祐経を討ち取りました。 |
曽我兄弟の仇討ちをきっかけに頼朝の異母弟範頼は謀反を疑われてしまいます。 |
源頼朝亡き後、幕府政治で最も重要な訴訟裁決が将軍の手から離れたことで、幕府の実権も御家人に移ることとなりますが、それは有力御家人間の対立を生むことになります。 |
1200年(正治2年)正月20日、鎌倉を追放された梶原景時が、上洛途上の駿河国清見ヶ関で討死。 |
建仁の乱は、1201年(正治3年)に梶原景時の庇護をうけていた城氏の反乱。 巴御前と並び称される女武者・板額御前が活躍。 |
1203年(建仁3年)6月23日、謀反を企てたとして捕えられた阿野全成が下野国で八田知家に誅殺される。 全成は、頼朝の異母弟で義経の同母兄。 |
1203年(建仁3年)9月2日、比企能員が北条時政に暗殺される。 比企一族も北条義時らに攻められて滅亡。 |
1204年(元久元年)4月、平賀朝雅が伊賀・伊勢の平家残党の反乱を鎮圧。 |
1204年(元久元年)7月18日、比企能員の変後、伊豆の修禅寺に流されていた源頼家が暗殺されます。 |
1205年(元久2年)6月22日、北条時政の謀略により畠山重忠が滅亡。 |
1205年(元久2年)閏7月20日、北条時政が後妻牧の方と平賀朝雅を将軍に据えようと企てて鎌倉を追放されました。 |
1213年(建暦3年)5月3日、北条義時打倒の挙兵をした和田義盛が滅亡。 この合戦で義時は、のちに建長寺・明月院・浄智寺・円覚寺・東慶寺といった禅寺が建ち並ぶ山内荘を手にしています。 |
1219年(建保7年)1月27日、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の式に出席した源実朝が甥の公暁に暗殺されます。 後鳥羽上皇と良好な関係にあった実朝の死は、幕府と後鳥羽上皇の関係を急速に悪化させます。 |
1221年(承久3年)5月15日、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を下します。 |
北条政子の出撃命令により、幕府軍は19万騎で京都に向けて進軍し、6月15日に入京。 後鳥羽上皇は隠岐に流されました。 |
1224年(貞応3年)6月13日、北条義時が死去。 伊賀氏の変は、義時の死後、伊賀光宗と義時の後妻伊賀の方が起こした政変。 |
京都文化博物館特別展「よみがえる承久の乱」で展示された鎌倉の辻の薬師堂の戌神像。 北条義時が建てた大倉薬師堂の戌神像(運慶作)の模刻と考えられている。 |
「菊御作」は、後鳥羽上皇が北条義時追討の挙兵に際して士気を鼓舞するため、自らが鍛えたものと伝えられている。 |
「太刀 銘有綱」は、巴御前が帯びていたと伝えられている太刀(個人蔵)。 |
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