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鎌倉の歴史・旧跡に関する記述について,最も適当なものを 1 〜 4 から選びなさい。 |
(1) | 大倉に居を構え,武士として初めて幕府を開いた人物はだれか。 |
1 源義家 2 源頼義 3 源義朝 4 源頼朝 |
鎌倉は源頼義・義家・義朝が東国支配の拠点としてきました。 1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で平家打倒の挙兵をした源頼朝は、石橋山の戦いで敗れた後、安房国へわたり再挙。 10月7日、先祖ゆかりの鎌倉を本拠としました。 |
鎌倉に入った源頼朝は、先祖頼義が創建した鶴岡八幡宮(由比若宮)を遙拝し、父源義朝の旧跡(亀ヶ谷、現在の壽福寺辺り)を訪れます。 頼朝は義朝の旧跡に御所を置こうと考えますが、土地が狭く、岡崎義実が建てた亡き父の御堂もあったことから、大倉の地を選んだのだといいます。 大倉幕府は頼朝・頼家・実朝の源氏三代と北条政子の御所。 |
(2) | 鎌倉時代,将軍を補佐するために置かれた,御家人の最高位の役職を何というか。 |
1 別当 2 管領 3 執権 4 執事 |
「将軍を補佐し、政務を統べる重要な役職」のことを執権といいます。 初代執権は、源頼朝の挙兵を支援した北条時政といわれています。 |
鎌倉北条九代 |
(3) | 源実朝の暗殺で源氏将軍が途絶えたことを北条義時追討の好機と考えて,鎌倉幕府に戦いを挑んだ人物はだれか。 |
1 鳥羽上皇 2 後白河法皇 3 後鳥羽上皇 4 後三条天皇 |
後鳥羽上皇と良好な関係を保ってきた三代将軍源実朝ですが、1219年(建保7年)1月27日、甥の公暁に暗殺されてしまいます。 この事件を機に鎌倉幕府と後鳥羽上皇との関係は急激に悪化し、1221年(承久3年)には承久の乱が起こることに。 |
北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) |
(4) | 鎌倉幕府関係者が編纂したといわれる,1180年(治承4)から1266年(文永3)に至る歴史書を何というか。 |
1 『今鏡』 2 『増鏡』 3 『吾妻鏡』 4 『大鏡』 |
『今鏡』は平安時代末期の歴史物語。 『増鏡』は南北朝時代の歴史物語。 『大鏡』は平安時代後期の歴史物語。 『吾妻鏡』の記録は・・・ 以仁王が源頼朝をはじめとする全国の源氏に平家打倒の令旨を発するところから始まり、六代将軍・宗尊親王が京都へ送還されて終わります。 |
1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の皇子以仁王は、源頼政の申し入れを受けて、源頼朝をはじめとする全国の源氏に平家打倒の令旨を発します。 |
4月27日、伊豆国の北条館に令旨が到着。 頼朝は水干に着替え、石清水八幡宮を遙拝した上で、謹んで開いて見たとのだいいます。 |
(5) | 1関東8か国に甲斐・伊豆を合わせた10か国を統治するために,鎌倉に置かれた室町幕府の機関を何というか。 |
1 鎌倉府 2 鎌倉探題 3 鎌倉奉行 4 鎌倉守護 |
室町時代、鎌倉に設置されたのは鎌倉府。 その長官は鎌倉公方と呼ばれ、初代には足利尊氏の子基氏がなりました。 鎌倉公方の下には、その補佐役として関東管領が置かれ、上杉氏(山内、犬懸、扇谷、宅間)が世襲しています。 |
(6) | 「鎌倉」の地名が記された最も古い文献とされているのは何か。 |
1 『日本書紀』 2 『万葉集』 3 『古事記』 4 『倭名類聚鈔』 |
奈良時代に編纂された日本最古の歴史書である『古事記』には・・・ 「日本武尊の子、足鏡別王は鎌倉之別の祖…」 と記されています。 『日本書紀』は奈良時代成立の歴史書。 『万葉集』は現存する日本最古の和歌集。 『倭名類聚鈔』は平安時代の辞書。 |
(7) | 戦国大名長尾景虎が上杉憲政から山内上杉家の名跡を譲られた場所はどこか。 |
1 鶴岡八幡宮寺(鶴岡八幡宮) 2 建長寺 3 円覚寺 4 荏柄天神社 |
越後の虎と呼ばれた長尾景虎(上杉謙信)は、1561年(永禄4年)、関東管領上杉憲政(山内上杉家)から上杉の家督と関東管領職を相続し、鶴岡八幡宮で拝賀式を行っています。 |
関東管領に就任したら鶴岡八幡宮へ参拝するのが例になっていたようです。 |
(8) | 鎌倉市は,観光振興や地域活性化を図る日本遺産に,“「いざ、鎌倉」〜歴史と文化が描 くモザイク画のまちへ〜”で認定されている。これを認定した機関は何か。 |
1 観光庁 2 文化庁 3 政府観光局 4 ユネスコ |
日本遺産は、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを文化庁が認定するもの。 「いざ、鎌倉」〜歴史と文化が描くモザイク画のまちへ〜は、2016年(平成28年)に認定されました。 構成文化財は、鶴岡八幡宮や建長寺をはじめとする社寺、若宮大路や切通などの史跡、鎌倉文学館や旧華頂宮邸などの別荘建築、湯浅物産館などの商店、さらには流鏑馬やぼんぼり(雪洞)祭などの無形文化財の計54件。 源頼朝が「武運長久」を祈願して太刀を奉納した大山も同じ年に認定されています。 |
(9) | 北条泰時に願い出て往阿弥陀仏が和賀江嶋を築いたのはどこか。 |
1 七里ヶ浜 2 小動岬 3 稲村ヶ崎 4 材木座 |
定かではありませんが、「和賀」は「材木座」の古名ともいわれます。 |
材木座海岸 |
和賀江嶋 |
材木座海岸は、飯島岬から滑川の河口までの海岸。 飯島岬から海中に積まれた石は、北条泰時が造営させた和賀江嶋。 現存する最古の築港遺跡。 |
(10) | 1910年(明治43),七里ヶ浜沖で起きた逗子開成中学の生徒らのボート転覆海難事故の慰霊碑があるのはどこか。 |
1 七里ヶ浜海岸 2 稲村ヶ崎 3 腰越港 4 由比ヶ浜海岸 |
1910年(明治43年)1月23日、カッターで江の島までの旅に出た逗子開成中学の生徒12名が七里ヶ浜沖で遭難。 稲村ヶ崎には遭難碑が建てられ、円覚寺の朝比奈宗源管長による書がはめ込まれています。 |
稲村ヶ崎 |
ボート遭難碑 |
(11) | 東勝寺跡に残されている「腹切りやぐら」に,その屍が葬られたと伝えられている最後の得宗はだれか。 |
1 北条時宗 2 北条貞時 3 北条経時 4 北条高時 |
1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞に攻められた北条高時は執権館から東勝寺に引き籠り、一族870名とともに自刃しました。 |
東勝寺で自刃した北条高時の首は「腹切やぐら」に葬られたと伝えらていますが、実際は釈迦堂ヶ谷奥やぐら群(釈迦堂切通付近)に葬られたと考えられています。 |
(12) | 典型的な中世の山城で鎌倉にとって辺境の守りの拠点だったが,建武のころ,南朝方の武将北畠顕家らによって落城したという城址はどこか。 |
1 住吉城址 2 杉本城址 3 玉縄城址 4 天神山城址 |
1337年(建武4年)、後醍醐天皇の命を受けて西上する途中の北畠顕家は、朝夷奈切通から鎌倉に入り、斯波家長の守る杉本城を攻めて落城させました。 住吉城・玉縄城は北条早雲が築いた城。 天神山城は玉縄城の出城と考えらえています。 |
杉本城址 |
杉本寺 |
杉本城は三浦義明の長男杉本義宗によって築かれたといわれています。 鎌倉最古の杉本寺の観音堂の上が城跡。 |
(13) | 源頼朝が,1185年(文治元),父の供養のために雪ノ下の大御堂に創建したと伝えられる寺の旧跡はどこか。 |
1 永福寺跡 2 勝長寿院跡 3 高松寺跡 4 東勝寺跡 |
1185年(文治元年)9月3日、源頼朝は後白河法皇から送られた父義朝と、義朝に仕えた鎌田政長(政清・政家)の首を葬ります。 その地は勝長寿院。 |
10月24日に落慶供養が行われた勝長寿院の本堂(阿弥陀堂)には、宅間(藤原)為久による「浄土瑞相二十五菩薩像」(壁画)が描かれ、成朝(奈良仏師)によって彫られた「黄金の阿弥陀仏」が本尊として安置されていました。 |
鶴岡八幡宮(鶴岡八幡宮寺)・勝長寿院・永福寺は、源頼朝建立の三大寺院と呼ばれています。 |
(14) | 大仏切通の北に位置し,鎌倉防衛の要衝で鎌倉時代を代表する武家屋敷跡は何か。 |
1 長者屋敷跡 2 北条氏常盤亭跡 3 北条高時邸跡 4 安達泰盛屋敷跡 |
第七代執権北条政村をはじめとする北条氏(政村流)は、鎌倉防衛の要衝である常盤に別邸を構えました。 |
大仏切通 |
北条氏常盤亭跡 |
大仏切通の北に位置する北条氏常盤亭跡は国の指定史跡となっています。 |
(15) | 六地蔵に建つ句碑にはだれの句が刻まれているか。 |
1 松尾芭蕉 2 与謝蕪村 3 小林一茶 4 夏目漱石 |
「夏草やつわものどもが夢のあと」 六地蔵の辺りは「芭蕉の辻」と呼ばれます。 |
六地蔵 |
芭蕉句碑 (平泉) |
六地蔵の「夏草や兵どもが夢のあと」は、源義経が最期を遂げた奥州平泉の高館(衣川館跡)で詠まれたもの。 |
(16) | 鎌倉十井のうち,小町通り北の端,鶴岡八幡宮に通じる道の角にあり,水がどんなときで も涸れたことがないといわれる井戸は何か。 |
1 鉄ノ井 2 泉ノ井 3 甘露ノ井 4 底脱ノ井 |
小町通りにあるのは、鉄観音の頭が出てきたという鉄ノ井。 |
鉄ノ井 |
鉄観音 (大観音寺本尊) |
鉄ノ井から出てきた鉄観音の頭は、北条政子が創建したという新清水寺の本尊のもの。 現在は、東京人形町の大観音寺の本尊となっています。 |
(17) | 源為朝の伝説が残る,材木座から小坪に抜ける海際の道にある鎌倉十井の1つは何か。 |
1 棟立ノ井 2 扇ノ井 3 銚子ノ井 4 六角ノ井 |
材木座にあるのは、源為朝(源義朝の弟、源頼朝の叔父)が配流先の大島から光明寺の裏にある天照山めがけて放った矢が落ちたという六角ノ井。 |
(18) | 鎌倉十橋のうち,今は碑と敷石があるだけだが,明治の末まで壽福寺門前に架かっていたといわれる橋は何か。 |
1 十王堂橋 2 勝ノ橋 3 乱橋 4 夷堂橋 |
壽福寺の門前に橋標が残されているのは、英勝寺の開基・お勝の方(英勝院尼)が架けた勝ノ橋。 |
(19) | 六浦口とも呼ばれ,鎌倉の東側の守備を担ったと考えられる切通はどこか。 |
1 仮粧坂 2 朝夷奈切通 3 釈迦堂切通 4 名越切通 |
鎌倉と金沢(六浦)を結ぶ古道は朝夷奈切通。 |
朝夷奈切通は、三代執権北条泰時が開いた道。 鎌倉七口の一つ 六浦からの塩がこの道を通って鎌倉に運ばれたことから「塩の道」とも呼ばれました。 それを示すものとして、光触寺には「塩嘗地蔵」の伝説が残されています。 鎌倉側の入口には、鎌倉五名水の一つ梶原太刀洗水も。 |
(20) | 源頼朝が妻政子の安産を祈願してその大路とともに「段葛」を造営させたといわれている大路はどこか。 |
1 小町大路 2 若宮大路 3 大町大路 4 西大路 |
1182年(養和2年)、源頼朝は妻北条政子が懐妊したのを機に鶴岡八幡宮の参道若宮大路の造営を始めます。 |
若宮大路 |
段葛 |
若宮大路は、平安京の朱雀大路を模して造営されました。 鶴岡八幡宮と由比ヶ浜を一直線に結ぶ古道です。 中央の段葛は、全国で唯一残っている遺構。 |
自然・景観の問題 |
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