|
歴史・旧跡に関する記述について,最も適当なものを 1 ~ 4 から選びなさい。 |
(1) | 源頼義がある戦いの勝利に感謝するため,石清水八幡を勧請して由比若宮(現在の元八幡・鶴岡八幡宮の前身)を建立したが,その戦いとは何か。 |
1 平将門の乱 2 前九年合戦 3 平忠常の乱 4 後三年合戦 |
由比若宮は、前九年の役(前九年合戦)の勝利に感謝するため、源頼義が源氏の氏神・京都の石清水八幡宮を勧請して創建。 平将門の乱は、平将門が自らを新皇と称して起こした反乱。 平忠常の乱は、源頼義が平直方から鎌倉の地を譲り受けるきっかけとなった合戦。 後三年合戦は源義家が介入した戦役で、この合戦をきっかけに奥州藤原氏が登場。 |
平将門の娘春姫は平忠常の母。 忠常は房総平氏の祖と呼ばれ、源頼朝の挙兵に参じた千葉常胤や上総広常の先祖。 |
(2) | 源実朝暗殺以降,執権として鎌倉幕府の実権を握った一族の家紋はどれか。 |
北条氏の家紋はミツウロコ(三つ鱗)。 三角形を3つ、三角形の形に並べたもの。 二等辺三角形が北条得宗家とか、後北条氏は正三角形などという説明がなされることもありますが、根拠がないもの・・・ 正解は4ですが、この形とは限らないのかもしれない。 |
○鎌倉時代、源実朝暗殺以降、幕府の実権は執権である北条氏が握ったが、北条氏の家紋はどれか。 |
(3) | 富士の巻狩の最中,曾我兄弟が仇討ちをしたときの騒動に紛れて,源頼朝に対して謀反を企てたという疑いで伊豆に追放され,後に殺害されたといわれているのはだれか。 |
1 阿野全成 3 源範頼 |
2 源頼家 4 平賀朝雅 |
源頼朝への謀反の疑いをかけられ、伊豆の修禅寺に幽閉された後、殺害されたのは源範頼。 阿野全成は、源頼家への謀反の疑いで誅殺されました。 源頼家は、比企能員の変後、修禅寺に幽閉され、暗殺されました。 平賀朝雅は、北条時政と牧の方が将軍に据えようとしますが失敗に終わり、誅殺されました。 |
(4) | 和田合戦において,従兄弟の和田義盛を裏切り,北条義時に味方した御家人はだれか。 |
1 安達景盛 3 足立遠元 |
2 三浦義村 4 三浦泰村 |
和田合戦が起こったのは1213年(建暦3年)。 安達景盛はすでに死去、足立遠元の没年は不明ですがおそらく亡くなっていたでしょう。 三浦泰村は三浦義村の子。 |
(5) | 次のうち,源頼家が家督を継ぎ,鎌倉を追放されるまでの間に滅ぼされた御家人の正しい組み合わせはどれか。 |
1 比企能員・畠山重忠 2 和田義盛・畠山重忠 3 比企能員・梶原景時 4 和田義盛・比企能員 |
源頼家が家督を継いだのは1199年(建久10年)1月。 伊豆の修禅寺に幽閉されたのが、1203年(建仁3年)9月。 この間に滅ぼされたのは、梶原景時・城長茂・阿野全成・比企能員など。 |
(6) | 公文所の初代別当であり,源頼朝の信任が厚かった大江広元のものとされる墓がある場所の正しい組み合わせはどれか。 |
1 二階堂・浄明寺 2 二階堂・十二所 3 西御門・浄明寺 4 西御門・十二所 |
法華堂跡にある墓は知られていますが、明王院裏山(胡桃山)にもあります。 |
伝大江広元墓 (胡桃山) |
大江広元の墓 (法華堂跡) |
(7) | 次の日蓮の旧跡うち,明治時代の日蓮宗学者の田中智学がその周囲を整備したのはどれか。 |
1 日蓮袈裟掛松 2 日蓮雨乞いの池 3 日蓮上人辻説法跡 4 日蓮乞水 |
日蓮の腰掛石が路傍に捨て置かれている様を見た田中智学は、扇ヶ谷に別荘を構え、日蓮の旧蹟復興を考えたのだといいます。 亀ヶ谷坂には田中智学師子王文庫跡碑が建てられています。 |
袈裟掛松 |
霊光寺 |
辻説法跡 |
日蓮乞水 |
(8) | 次のうち,「鎌倉に五名水あり」として,「鎌倉五名水」について記載された史料はどれか。 |
1 『丙辰紀行』 2 『海道記』 3 『新編鎌倉志』 4 『新編相模国風土記稿』 |
現在でも知られる鎌倉の名数は『新編鎌倉志』で選定されました。 |
(9) | 執権の北条氏について,次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 |
1 | 北条時政は源実朝を廃して,後妻の牧の方の親族の平賀朝雅を将軍にしようと企て,義時と政子に阻まれ失脚した。 |
2 | 北条時宗は,御内人の平頼綱の助言により,有力御家人安達一族を滅ぼした。 |
3 | 北条時頼は,三浦一族を滅亡に追いやり,名越光時を失脚させ,得宗の権力を堅固なものにした。 |
4 | 北条高時は,内管領の長崎氏を滅ぼし,後醍醐天皇の倒幕計画に迅速に対応するなど執権(得宗)政治を主導した。 |
1285年(弘安8年)の霜月騒動では、源実朝の正妻坊門姫が信頼していた安達泰盛が滅亡しました。 この時の執権は北条時宗ではなく北条貞時。 参考までに、1の平賀朝雅は「北条時政の後妻・牧の方の親族」ということですが、朝雅は時政と牧の方との娘を妻としていたようです。 |
(10) | 木曽義高(源義高・清水義高)について,次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 |
1 | 木曽義仲の嫡男である木曽義高は,人質として鎌倉に送られた。 |
2 | 木曽義高は,源頼朝と北条政子の長女大姫の許婚となった。 |
3 | 木曽義仲が討たれると,政子と大姫の計らいで義高は密かに逃げたが,頼朝の追っ手に捕らわれ,入間川で斬首された。 |
4 | 義高の首は藪の中に捨てられたが,理智光寺の住職によって埋葬され,土地の人は,その墓の辺りを木曽免と呼んだ。 |
4の理智光寺は、源実朝の供養のために建てられたともいわれる寺(廃寺)。 理智光寺の住職は、1335年(建武2年)に起こった中先代の乱の際に殺害された護良親王の首を葬ったのだと伝えられています。 木曽義高は、源頼朝に人質として預けられた木曽義仲の嫡男。 1184年(寿永3年)に義仲が追討されると、義高も誅殺されました。 3の義高の逃亡に北条政子も関わっていたかどうかはわかりませんが・・・ |
歴史・旧跡について関連あることがらの組み合わせとして誤っているものを 1 ~ 4 から選びなさい。 |
(11) | 地蔵とその所在地 |
1 とげぬき地蔵-多聞院 2 貝吹地蔵-天園 3 身代わり地蔵-延命寺 4 矢拾地蔵-浄妙寺 |
多聞院は、とげぬき地蔵で知られる寺。 貝吹地蔵は、新田義貞の鎌倉攻めで自害した北条高時の首を持って逃げた家臣を瑞泉寺の裏山に導いたのだとか。 延命寺の身代わり地蔵は、北条時頼夫人の守護仏。 矢拾地蔵は、足利直義を救ったという浄光明寺の地蔵尊。 |
(12) | やぐらと寺社 |
1 | 百八やぐら-覚園寺 |
2 | 朱垂木やぐら-建長寺 |
3 | 多宝寺跡やぐら群-圓應寺 |
4 | 瓜ヶ谷やぐら群-葛原岡神社 |
多宝寺は、極楽寺や称名寺(横浜市金沢区)と並ぶ鎌倉の真言律宗の主要な寺でした。 浄光明寺裏山の覚賢の五輪塔は、極楽寺の忍性の五輪塔に匹敵するほどの大きさ。 |
歴史・旧跡について,次の説明文の〔 〕に最も適当なものを 1 ~ 4 から選びなさい。 |
雪ノ下の大御堂にあった〔 (13) 〕は,〔 (14) 〕が父親の供養のために創建し,奈良から仏師〔 (15) 〕を招いて,黄金の〔 (16) 〕像を造らせて安置し,盛大な儀式を行ったと伝えられる。 |
(13) |
1 東勝寺 2 太平寺 3 永福寺 4 勝長寿院 |
(14) |
1 源頼朝 2 源頼義 3 源義朝 4 源義家 |
(15) |
1 定朝 2 成朝 3 快慶 4 運慶 |
(16) |
1 薬師如来 2 釈迦如来 3 阿弥陀如来 4 大日如来 |
1185年(文治元年)、源頼朝は父義朝の菩提を弔うために勝長寿院を建立します。 後白河法皇から送られた義朝と義朝に仕えた鎌田政長(政清・政家)の首が葬られました。 本堂(阿弥陀堂)には、宅間(藤原)為久が「浄土瑞相二十五菩薩像」(壁画)が描き、成朝(奈良仏師)によって彫られた「黄金の阿弥陀仏」が本尊として安置されます。 1219年(承久元年)には、北条政子が源実朝の冥福を祈るため五仏堂を建立し、運慶の五大尊像が安置されました。 奈良仏師は、藤原道長の時代に活躍した定朝の流れをくむ集団。 定朝は道長の法成寺の造仏を担当し、平等院の鳳凰堂の阿弥陀如来を造立しています。 定朝の孫頼助は、奈良の興福寺を拠点に活動。 康助、康朝、成朝と父から子へ受け継がれますが、成朝没後に正系は途絶え、傍系の康慶、運慶らの慶派に受け継がれていくことになります。 |
(13) 4 (14) 1 (15) 2 (16) 3 |
鎌倉十井の 1 つ〔 (17) 〕には,次のような伝説がある。弓の名手として知られる〔 (18) 〕 が,〔 (19) 〕で敗れて配流された伊豆の大島から鎌倉の光明寺の裏山にある〔 (20) 〕をめがけて矢を放ったところ,この井戸に落ちたという。 |
(17) |
1 星ノ井 2 六角ノ井 3 扇ノ井 4 鉄ノ井 |
(18) |
1 源義家 2 那須与一 3 源為朝 4 俵藤太 |
(19) |
1 後三年合戦 2 平治の乱 3 平忠常の乱 4 保元の乱 |
(20) |
1 鷲峰山 2 天照山 3 天台山 4 祇園山 |
源頼朝の叔父・源為朝は保元の乱で伊豆大島に流されました。 弓の名手であった為朝は、自分の力を試すために大島から光明寺の裏山の天照山めがけて矢を放ちます。 すると、六角ノ井に落ちたのだとか・・・ |
(17) 2 (18) 3 (19) 4 (20) 2 |
自然・景観の問題 |
★鎌倉検定の受検お申し込みは 鎌倉商工会議所ホームページへ |
|