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1183年(寿永2年)、頼朝の従兄弟源義仲(木曽義仲)は、叔父行家とともに平家との戦いを続け、「倶利加羅峠の戦い」で平氏の大軍を破り、上洛を果たします。 平家一門は、安徳天皇を擁して西国に逃れて行きました。 しかし、統制の取れていない義仲軍は、略奪を繰り返し、飢饉に苦しむ京都の情勢を悪化させてしまいます。 また、皇位継承問題にも口を出すなど後白河法皇の反感を買ってしまいます。 そこで、後白河法皇は、義仲を平氏追討に向かわせる一方で、頼朝に上洛を要請します。 |
義仲は北陸道を進んで上洛しています。 これは頼朝や武田信義との衝突を避けるためといわれています。 |
木曽義仲に攻められた平家は、六波羅館を焼き払って京を落ちます。 六波羅蜜寺もその兵火によって焼失しています。 |
背後に藤原秀衡を抱える頼朝は、一時、後白河法皇の要請を断ります。 しかし、後白河法皇が、頼朝をもとの位階である「従五位下右兵衛佐」に復し、「東海道・東山道の沙汰権」(寿永二年十月宣旨)を頼朝に与えたことにより、それまで反乱軍だった頼朝の軍が朝廷より正式に認められる形となったため、弟源義経を京に向けて出発させます。 一方、平氏追討に失敗して京都に戻った義仲は、義経が近江にまで迫っていることを知ると、後白河法皇の法住寺殿を襲撃して法皇を拘束し、頼朝追討の院宣を引き出しました。 翌1184年(寿永3年)1月には征夷大将軍に任ぜられました。 頼朝は弟源範頼も派遣し、義経とともに京に攻め入らせ、義仲を近江で討ち取りました(1184年(寿永3年)1月20日)。 |
◎寿永二年十月宣旨 頼朝に対して、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認したもの。 |
三十三間堂
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宇治川先陣の碑
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義仲寺 |
木曽義仲の墓 |
1183年(寿永2年)、頼朝が鎌倉から追放した叔父源行家や志田義広を木曽義仲が庇護したことからその仲が悪化し、武田信義の讒訴もあって、武力衝突が避けられない状況となりましたが、義仲が嫡子義高を人質として差し出すことで和解しています。 鎌倉での義高は、名目上、頼朝の娘大姫の許嫁でした。 大姫もよく義高に懐いていたそうです(当時、義高11歳、大姫は6歳くらいだったといいます。)。 義仲が近江で討たれると、義高も殺されます。(参考:木曽義高の誅殺 木曽塚) 義高が殺されたことで大姫は病となり、生涯治ることはありませんでした。 |
木曽塚
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岩船地蔵堂
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1184年(寿永3年)2月、義仲を討ち取った範頼と義経は、平家追討のため一ノ谷に向かい、平氏軍を討ち破ります。 このとき平重衡が捕らえられ鎌倉に送られています。 |
一ノ谷古戦場 |
平重衡 とらわれの松跡 |
後白河法皇の謀略か?〜平宗盛の手紙〜 |
平重衡は南都焼討ちをした武将。 教恩寺には、重衡が信心したという阿弥陀像が伝わっています。 この像は頼朝が重衡に与えたものだと伝えられています。 |
南都焼討の平重衡と鎌倉(okadoのブログ) |
頼朝は、一ノ谷の戦いで勲功のあった武将に官位を与えますが、義経には官位が与えられませんでした。 義経は、後白河法皇より直に(頼朝の内諾も得ず)検非違使の任官を受けてしまいます。 怒った頼朝は平氏追討から義経をはずします。 |
義経の無断任官 |
1185年(元暦2年)1月、頼朝のもとに平氏追討に当たっていた範頼から糧食不足などの窮状が訴えられたため、再び義経が起用されます。 義経は、得意の奇襲攻撃で屋島の平氏軍を討ち破り、海路平氏を追い、壇ノ浦に滅亡させました(安徳天皇は入水)。 |
屋島古戦場 |
壇ノ浦古戦場 |
平氏の滅亡・・・吾妻鏡に記された壇ノ浦の戦い(okadoのブログ) 源平合戦で捕らえられた宗盛と重衡(okadoのブログ) |
「公文所」は、政治・財政を司る機関。のちの「政所」。 1184年(元暦元年)、大江広元を別当(長官)として設置されました。 「問注所」は、裁判を司る機関。 1184年(元暦元年)、三善康信(善信)を執事として設置されました(問注所跡)。 |
1185年(文治元年)、頼朝は父義朝の菩提を弔うために勝長寿院を建立しました。 文覚の弟子が持ち帰ったという義朝の髑髏が葬られ、義朝の重臣鎌田政家の遺骨も葬られました。 現在は、その跡だけが残ります。 そして、同じ年、夢のお告げを受けて創建されたのが銭洗弁財天宇賀福神社だと伝えられています。 |
勝長寿院跡 |
銭洗弁財天 宇賀福神社 |
1185年(元暦2年)5月、頼朝は御家人らに義経に従わぬよう命令を下しています。 壇ノ浦の戦いが終わると、梶原景時から「義経は合戦の手柄を自分一人のものとしようとしている」という書状が届けられていました。 義経と景時は、屋島の戦いでは逆櫓をめぐって衝突し、壇ノ浦の戦いでは先陣をめぐって衝突したのだと伝えられています。 範頼からも、義経の越権行為に対する苦情が寄せられていました。 |
1185年(元暦2年)5月、義経は、壇ノ浦で捕えた平宗盛父子を伴って鎌倉に凱旋しようとしますが、頼朝は義経を鎌倉へは入れず、北条時政が平宗盛父子を引き取って鎌倉へ護送しています。 義経は、腰越の満福寺に留まって、頼朝の誤解を解くための書状(「腰越状」)を書きますが、許されず、翌月、再び平宗盛父子を伴って帰洛するよう命じられます。 このとき義経は、「関東に不満を持つ者は、義経に従え」と言い放ったと伝えられています。 |
満福寺 |
宗盛塚 (滋賀県野洲市) |
その後、頼朝は、佐々木高綱に対し、義経に接近していた源行家の追討を命ずるととともに、梶原景季を京に遣わし、義経の動向を探らせています。 1185年(文治元年)9月、景季が義経を訪ねると、義経は痩せ衰えた体で景季の前に姿を現します。 そして、景季が「行家追討」の要請をしたのに対し、病気であることと、行家が同じ源氏であることを理由に断ったといいます。 この返答によって、義経と行家が繋がっていると判断した頼朝は、翌10月、土佐坊昌俊を刺客として京に送りますが失敗しています。 一方、義経には、「頼朝追討の宣旨」が下されました。 |
土佐坊昌俊邸跡 |
冠者殿社 |
平時忠・時実父子と源義経 源義経の側室蕨姫 土佐坊昌俊の義経襲撃 |
頼朝は、勝長寿院落成供養後、京都に進軍することを決定し、自ら軍を率いて駿河の黄瀬川に着陣します(1185年(文治元年)11月)。 一方の義経は、兵が集まらず、都落ちし、海路西国を目指したものの、暴風雨に見舞われ、一行は散り散りとなり、義経も姿をくらませてしまいました。 のちに義経は、奥州平泉に逃れ藤原秀衡の庇護を受けます。 |
義経と行動を共にしていた愛妾・静は吉野で捕えられました(静の舞〜鎌倉と静御前〜)。 鎌倉に送られた静は、1186年(文治2年)、頼朝と政子の願いもあって、鶴岡八幡宮で舞を披露しています。 その際、義経を慕う舞を舞ったため、頼朝は大そうな怒りようだったといわれています。 その後、静は、鎌倉で義経の子を産みますが、男子だったため由比ヶ浜に捨てられたということです。 |
頼朝は、「頼朝追討の宣旨」を下した朝廷に対し、強硬な態度で望んだため、朝廷は恐れを抱き、「義経逮捕の院宣」を下します。 さらに、頼朝は、北条時政に1000の兵を付けて京都に派遣し、義経追捕を理由として、「全国の守護・地頭の設置」を要求し、これを認めさせています(文治の勅許:1185年(文治元年)11月28日)。 この勅許によって、頼朝による全国的政権が確定されました。 |
※ | 文治の勅許とは、諸国への守護・地頭職の設置・任免権を頼朝に与えることを許可したもの。 |
1186年(文治2年)5月、頼朝は、和泉国に潜んでいた叔父行家を討ち取ります。 そして、義経を庇う寺院勢力にも圧力を加えていきます。 次第に義経の郎党たちも捕まり、朝廷内に義経を匿う者がいることが判明したため、朝廷に対しても強硬な申し入れを行っています。 その結果、居場所を失った義経は、奥州平泉の藤原秀衡を頼ることになります。 |
鶴岡八幡宮で「放生会」が始められたのは、1187年(文治3年)のことでした。 このとき、「流鏑馬」が奉納されています。 その前年、頼朝は東大寺再建の勧進のため奥州に向かう途中の西行に、弓馬の道を尋ねたといいます。 流鏑馬は、西行の教えに従って始められたと伝えられています。 |
1188年(文治4年)、頼朝は、走湯山(伊豆山)・箱根山の二所権現と三嶋社を参詣する二所詣を始めました。 いずれも1180年(治承4年)の挙兵を援助してもらった神社です。 |
伊豆山神社 |
箱根神社 |
三嶋大社 |
1 配流・挙兵・鎌倉入り 2 東国の整備 3 源平合戦と義経追放 4 奥州征伐と征夷大将軍 5 晩年の頼朝 |
誕生から最期まで、頼朝ゆかりの地を巡って頼朝を学びます。 |
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