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1180年(治承4年)10月6日、関東武士団を率いて相模国に入った源頼朝は、翌7日には先祖源頼義が創建した由比若宮を遙拝し、父源義朝の旧跡を訪れます。 |
頼朝の祖先 頼義・義家・義光・義朝 |
鎌倉に入った頼朝は、武家の都の街づくりのはじめとして、1063年(康平6年)、先祖源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請した由比若宮(現在の元八幡)を大臣山の麓に遷します。 以後、鎌倉の街は、鶴岡八幡宮を中心に発展していきます。 |
元八幡 (由比若宮) |
鶴岡八幡宮 |
頼朝は当初、父義朝の館があったという亀ヶ谷(現在の壽福寺付近)に御所を建てようと考えますが、思いのほか狭く、父義朝を祀る祠もあったことから、大倉の地を御所とすることにしました。 当座の屋敷として、山ノ内に二百年もの間、焼けも壊れもせず残っていたという首藤兼道邸が移築されました。 この建物は、陰陽師・安倍晴明の護符が貼られていたのだと伝えられています。 御所の造営には、大庭景義が奉行に命じられました。 |
頼朝が鎌倉入りして間もなく、平維盛の率いる平氏軍が駿河に達してきます。 10月20日、頼朝も出陣。 甲斐の武田信義と示し合わせ、富士川の戦いで勝利をおさめました。 維盛軍は、水鳥の飛び立つ音を敵襲と勘違いし敗走したと伝えられています。 このとき、頼朝は逃げる平氏を追うことを考えましたが、千葉常胤、上総介広常、三浦義澄らに「関東の平定が先である」と進言されて諦めたといいます。 翌21日には、弟の源義経と黄瀬川で対面しました。 |
富士川の戦い 平家越の碑 (富士市) |
涙の対面 対面石 (駿東郡清水町) |
頼朝の兄弟たち 範頼・全成・義経など |
富士川の戦いのあった翌11月には、常陸の佐竹秀義を征伐。 さらに、足利氏と新田氏を帰属させて、関東を支配下に入れました。 佐竹氏征伐後、鎌倉に戻った頼朝は、軍事・警察を担う侍所を設置して、和田義盛を別当としています。 |
1181年(治承5年)閏2月、平清盛が死去します。 清盛の後を継いだ平宗盛は、奥州平泉の藤原秀衡を陸奥守に任じ、頼朝追討令を出しています。 |
鎌倉入りを果たした頼朝は、鶴岡八幡宮を由比郷から現在の地に遷座して街の中心に据えます。 1182年(寿永元年)には、妻北条政子の安産祈願のため、参道の若宮大路の造営が始められ、中央には一段高い「段葛」が築かれました(この年、長男頼家誕生。)。 同年、源平池も造営されています。 |
若宮大路 |
段葛 |
1182年(寿永元年)という年は、天候不順により大飢饉に見舞われています。 源氏も平氏も食糧補給が困難ですので、この時期は休戦状態といったところです。 頼朝は、この年、伊勢神宮に平氏打倒の願文を奉じ、藤原秀衡調伏のために江ノ島に弁財天を勧請しています。 |
江の島弁財天 |
補陀洛寺 |
補陀洛寺は、1181年(養和元年)、頼朝の祈願所として創建されたと伝えられています。 |
上総介広常は、頼朝が石橋山の戦いに敗れ、安房(源頼朝上陸地)に渡った際に2万騎を率いて参上した武将。 しかし、無礼な振舞いも多い人物であったため、謀反を疑われ、1183年(寿永2年)、梶原景時に暗殺されました。 後日、広常謀反の疑いは、まったくの無実であることが明らかとなっています。 のちに後白河法皇と面談した頼朝は、「朝廷に対する忠誠心」から広常を殺したと述べています。 広常は、日頃より朝廷との交渉に努めていた頼朝に不満をもっていたことも事実のようです。 |
梶原景時が上総介広常を討った後、太刀の血をこの水で洗い流したと伝えられています。 |
1 配流・挙兵・鎌倉入り 2 東国の整備 3 源平合戦と義経追放 4 奥州征伐と征夷大将軍 5 晩年の頼朝 |
誕生から最期まで、頼朝ゆかりの地を巡って頼朝を学びます。 |
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