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奥州藤原氏は、初代清衡以来、三代にわたって陸奥・出羽国を支配し、三代秀衡は、陸奥守、鎮守府将軍に任じられています。 源義経は、幼少期を鞍馬寺で過したのち、藤原秀衡を頼り、頼朝によって追討令が出されると再び秀衡を頼って奥州平泉に逃げ込みました。 義経が奥州平泉へ下ったのは1187年(文治3年)の春頃と考えられています。 |
奥州平泉の発展と藤原清衡(okadoのブログ) |
奥州平泉に逃れた義経でしたが、1187年(文治3年)10月29日、頼みとしていた秀衡が亡くなります。 そして、1189年(文治5年)閏4月30日、義経は、秀衡の跡を継いだ泰衡に攻められ、衣川館で自刃しました。 |
高館義経堂 (平泉・衣川館跡) |
義経妻子の墓 (平泉・金鶏山) |
義経の首は鎌倉に送られ、和田義盛と梶原景時が首実検を行っています。 その後、捨てられた義経の首が流れ着いたのが、藤沢市にある白旗神社付近だったと伝えられています。 |
藤原秀衡は、子らの行く末を考えて、義経を将軍として奥州を守るよう遺言したと伝えられています。 |
1189年(文治5年)6月、頼朝は、泰衡追討の宣旨を求めますが、勅許は得られませんでした。 しかし、7月に入ると勅許を得ずして、奥州征伐に出陣します。 頼朝が平泉にまで進軍してくると、泰衡は平泉館を焼き払い逃亡します。 その後、家臣の裏切りに遭い殺害されたと伝えられています。 栄華を誇った奥州藤原氏が滅亡し、頼朝の武士による鎌倉政権が確立され、1180年(治承4年)の旗挙げからの戦も終わりを告げました。 |
1189年(文治5年)、頼朝は亡き母由良御前の菩提を弔うために、鶴岡八幡宮に五重塔を創建しています。 また、御所(大倉幕府)の裏山には、奥州征伐の祈願所をとしての持仏堂を設けます。 聖観音像を本尊とした堂で、頼朝の死後は「法華堂」と呼ばれました。 |
1190年(建久元年)11月、頼朝は上洛して後白河法皇に対面しています。 その折「征夷大将軍」の地位を熱望しますが、要望は受け入れられず、代わりに「権大納言・右近衛大将」に任ぜられました。 しかし、両方とも辞した上で鎌倉へと帰っています。 後白河法皇の生存中は、望みの「征夷大将軍」になることはできませんでしたが、1192年(建久3年)3月、後白河法皇が崩御すると、同年7月12日に「征夷大将軍」に任ぜられています。 この年、のちに三代将軍となる源実朝が誕生しています。 |
源頼朝の上洛・・・権大納言・右近衛大将 征夷大将軍と源頼朝 源頼朝が征夷大将軍に任ぜられる! 源頼朝が任命された征夷大将軍とは・・・ 源頼朝と御家人・・・所領安堵の下文 源実朝の誕生 |
1190年(建久元年)の上洛では、これまで義経と行家の捜索・逮捕の目的で得た「日本国総追補使・総地頭」の地位を、一般的な治安警察権に改めさせたと考えられています。 |
白山神社 |
佐助稲荷神社 |
白山神社は、上洛した頼朝が鞍馬寺から賜った毘沙門天像を祀ったことに始まると伝えられています。 佐助稲荷神社は、「かくれ里の稲荷」の伝説が残され、頼朝の命により畠山重忠が創建したと伝えられています。 |
政所は、三位以上の公卿に設置を許された家政機関。 1191年(建久2年)、これまでの公文所が政所に改められました。 |
1191年(建久2年)3月、火災により鶴岡八幡宮が焼け落ちました。 頼朝は直ちに再建にとりかかり、若宮とともに、大臣山の中腹に本宮を建てます 。 そして、改めて石清水八幡宮の祭神を勧請しました。その儀式の様子を再現したのが御鎮座記念祭です。 |
鶴岡八幡宮 |
石清水八幡宮 |
永福寺は、1192年(建久3年)、奥州征伐の折りに見た平泉の中尊寺や毛越寺を模して建てられました。 弟義経と奥州藤原氏の霊魂を静めるためと、頼朝の権勢を世に知らしめるためだといわれています。 |
源頼朝には、北条政子との間に生まれた頼家と実朝以外に男の子がいました。 伊豆の流人時代に伊東祐親の娘八重姫との間に生まれた千鶴丸と、1186年(文治2年)2月26日に伊達朝宗の娘大進局との間に生まれた貞暁(ていぎょう・じょうぎょう)です。 千鶴丸は伊東祐親に殺されてしまいますが、貞暁は1192年(建久3年)に仁和寺に入り、その後高野山に登っています。 のちに異母弟で三代将軍源実朝を暗殺した公暁は貞暁の弟子だったといいます。 1231年(寛喜3年)、高野山で亡くなっています。 |
1 配流・挙兵・鎌倉入り 2 東国の整備 3 源平合戦と義経追放 4 奥州征伐と征夷大将軍 5 晩年の頼朝 |
誕生から最期まで、頼朝ゆかりの地を巡って頼朝を学びます。 |
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