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鎌倉の歴史・旧跡に関する記述について,最も適当なものを 1 〜 4 から選びなさい。 |
(1) | 鎌倉幕府第2代執権に就任し,執権政治の基礎を築いた人物はだれか。 |
1 北条時政 3 北条経時 |
2 北条時頼 4 北条義時 |
鎌倉幕府の初代執権は北条時政といわれています。 二代北条義時 三代北条泰時 四代北条経時 五代北条時頼 八代北条時宗 九代北条貞時 十四代北条高時 |
鎌倉北条九代 |
(2) | 『吾妻鏡』によると,承久の乱に際して源頼朝の御恩を説き,御家人を激励したと伝えられる人物はだれか。 |
1 北条時政 3 北条政子 |
2 北条義時 4 北条泰時 |
1221年(承久3年)5月15日、後鳥羽上皇が打倒北条義時の挙兵をします。 『吾妻鏡』によると、北条義時追討の宣旨が鎌倉に届くと、北条政子は動揺する御家人に対し、安達景盛に代読させて源頼朝の恩顧を訴えています。 |
(3) | 源頼家の外戚として権力を得たが,北条時政らに滅ぼされたのは何氏か。 |
1 比企氏 3 和田氏 |
2 三浦氏 4 安達氏 |
1203年(建仁3年)、源頼家を擁する比企能員と源実朝を将軍にして実権を握りたい北条時政が対立。 9月2日、時政は能員を自邸(名越亭)に誘き出し、天野遠景と仁田忠常に命じて暗殺。 比企一族も北条義時らに攻められて滅亡しました。 |
(4) | 1203年(建仁3)に将軍職を引退させられ,最後は幽閉先の伊豆修禅寺で暗殺された人物はだれか。 |
1 藤原(九条)頼経 2 藤原(九条)頼嗣 3 源頼家 4 源範頼 |
1203年(建仁3年)9月2日、比企能員が暗殺され、比企一族が滅ぼされると、二代将軍源頼家は出家させられ伊豆の修禅寺に幽閉されました。 そして翌年7月18日に暗殺されました。 |
修禅寺は弘法大師が開いた古刹。 源頼朝の異母弟源範頼も修禅寺に幽閉され最期を遂げています。 |
源頼家の墓 |
指月殿 |
修禅寺門前を流れる桂川を越えた鹿山(塔の峰)の麓には源頼家の墓と、北条政子が頼家の冥福を祈って建てた指月殿があります。 |
(5) | 和賀江嶋の築港を許可し,鎌倉と六浦の間に道を開くことを決定し,朝夷奈切通をつくらせた人物はだれか。 |
1 北条政子 3 北条義時 |
2 北条泰時 4 北条経時 |
和賀江嶋 |
朝夷奈切通 |
1232年(貞永元年)、三代執権北条泰時は往阿弥陀仏という勧進僧に築港の許可を与えました。 材木座の和賀江嶋は現存する日本最古の築港です。 1241年(仁治2年)には鎌倉と金沢(六浦)を結ぶ朝夷奈切通を開いています。 |
(6) | 北条氏の権力を確立するために,宝治合戦で5代執権北条時頼が滅ぼした有力御家人は何氏か。 |
1 安達氏 3 和田氏 |
2 三浦氏 4 千葉氏 |
源頼朝が亡くなると・・・ 北条時政は、有力御家人の梶原景時・阿野全成・比企能員・畠山重忠を滅ぼし、二代将軍頼家を伊豆修禅寺に幽閉して暗殺。 二代執権北条義時の時代には、和田義盛が滅ぼされ、三代将軍実朝が暗殺されました。 五代執権北条時頼の時代になると、残る有力御家人は三浦氏のみになっていました。 |
(7) | 室町時代,関東8カ国に甲斐,伊豆を合わせた東国10カ国を統治した鎌倉公方に最初に就いたのはだれか。 |
1 足利成氏 2 足利義詮 |
2 足利基氏 4 足利氏満 |
鎌倉公方は室町時代に鎌倉に設置された鎌倉府の長官。 初代には足利尊氏の子基氏がなりました。 鎌倉公方の下には、その補佐役として関東管領が置かれ、上杉氏(山内、犬懸、扇谷、宅間)が世襲しています。 |
(8) | 明治時代に,由比ヶ浜を「海水浴場として理想的な海である」と紹介した医師はだれか。 |
1 北里柴三郎 2 長与専斎 3 ロベルト・コッホ 4 エルウィン・ベルツ |
エルウィン・ベルツは結核の保養地として最適と紹介し、長与専斎は海水浴に適していると紹介しました。 ロベルト・コッホは、弟子の北里柴三郎とともに霊山山を訪れ、その記念碑が稲村ヶ崎に建てられています。 |
(9) | 1889年(明治22)の出来事で,鎌倉が保養地・別荘地として発展するきっかけとなったのは何か。 |
1 | 横須賀線の大船―横須賀間開通 |
2 | 江ノ電の全線開通 |
3 | 自動車専用道路の大船―片瀬間開通 |
4 | 湘南有料道路(現国道 134 号線)の開通 |
江ノ電の全線開通は1910年(明治43年)。 大船−江の島間を結ぶ日本最初の自動車専用道路が開通したのは1930年(昭和5年)。 湘南有料道路が存在したのは、1956年(昭和31年)から1986年(昭和61年)まで。 1889年(明治22年)に開業したのは横須賀線。 |
(10) | 1936年(昭和11)に,久米正雄,大佛次郎,里見クなどの鎌倉在住の作家によって結成された会は何か。 |
1 鎌倉同人会 2 鎌倉風致保存会 3 鎌倉商工会 4 鎌倉ペンクラブ |
1936年(昭和11年)に結成されたのは、鎌倉在住の作家による鎌倉ペンクラブ。 |
(11) | 鎌倉時代には「前浜」と呼ばれ,小笠懸や流鏑馬,犬追物などの武芸の修練場とされていたのはどこか。 |
1 七里ヶ浜 2 片瀬東浜 |
2 由比ヶ浜 4 稲村ヶ崎 |
前浜とは鶴岡八幡宮の前の浜という意味。 ということは由比ヶ浜。 鎌倉時代には、流鏑馬・小笠縣・犬追物などの武芸の修練場とされていました。 源頼朝が放生会を行い、源実朝は渡宋を願って陳和卿に船を造らせました。 小坪・衣笠合戦、畠山重忠の乱、和田合戦の舞台にもなり、源義経と静御前の子が捨てられた浜でもあります。 伊豆・箱根の二所詣の際には、沐浴で身を清める「二所精進」が行われたのも由比ヶ浜でした。 |
(12) | 一般的なやぐらの形から珍しい様式のものまで,鎌倉にあるほぼすべてのやぐらの形式が見られるのはどこか。 |
1 瑞泉寺やぐら群 2 瓜ヶ谷やぐら群 3 明月院やぐら 4 百八やぐら |
百八やぐらは覚園寺後方にある鎌倉で最大規模のやぐら郡で、鎌倉のやぐらのほぼすべての形式をみることができます。 |
(13) | 源氏三代と尼将軍とも呼ばれた北条政子の時代に,幕府が置かれた場所とされる旧跡はどこか。 |
1 宇津宮辻子幕府跡 2 大倉幕府跡 3 若宮大路幕府跡 4 由比若宮幕府跡 |
源頼朝・頼家・実朝の源氏三代と北条政子の御所は大倉にありました。 のちに大倉幕府と呼ばれます。 |
1180年(治承4年)、鎌倉に入った源頼朝は、先祖頼義が創建した鶴岡八幡宮(由比若宮)を遙拝し、父源義朝の旧跡(亀ヶ谷、現在の壽福寺辺り)を訪れます。 頼朝は義朝の旧跡に御所を置こうと考えますが、土地が狭く、岡崎義実が建てた亡き父の御堂もあったことから、大倉の地を選んだのだといいます。 |
(14) | 大倉幕府跡の裏山にあった持仏堂に葬られ,江戸時代に造られた墓所が現在も残る人物はだれか。 |
1 大江広元 3 源頼朝 |
2 北条義時 4 北条政子 |
1199年(建久10年)正月13日に亡くなった源頼朝は、自らが御所の裏山に建てた持仏堂に葬られました。 |
源頼朝の持仏堂は、頼朝が葬られると「法華堂」と称されるようになります。 現在、頼朝墓が建てられている場所が法華堂の跡だといわれています。 頼朝墓を中心とする一帯は「法華堂跡」として国の指定史跡となっています。 |
(15) | 鶴岡八幡宮が明治初年まで鶴岡八幡宮寺であったことを示す旧跡は何か。 |
1 法華堂跡 3 二十五坊跡 |
2 永福寺跡 4 太平寺跡 |
1182年(寿永元年)、源頼朝は鶴岡八幡宮の初代別当に園城寺の円暁を任命。 1191年(建久2年)には「供僧二十五口の制」を定めています。 |
鶴岡八幡宮裏には、供僧の住坊である二十五坊がありました。 |
(16) | 次のうち,鎌倉時代を代表する武家屋敷跡として国指定史跡になっているものはどれか。 |
1 北条高時邸跡 2 東勝寺跡 3 長者屋敷跡 4 北条氏常盤亭跡 |
第七代執権北条政村をはじめとする北条氏(政村流)は、鎌倉防衛の要衝である常盤に別邸を構えました。 |
大仏切通 |
北条氏常盤亭跡 |
大仏切通の北に位置する北条氏常盤亭跡は国の指定史跡となっています。 |
(17) | 鎌倉五名水の 1 つ,佐助の銭洗水で金銭を洗うと特に福利が増すといわれているのは何の日か。 |
1 巳の日 3 酉の日 |
2 寅の日 4 辰の日 |
銭洗水は銭洗弁財天宇賀福神社の奥宮(洞窟内)の湧き水。 |
銭洗弁財天宇賀福神社は、源頼朝が「巳の年・巳の月・巳の日」に見た「夢のお告げ」によって、宇賀福神を祀ったことがその始まりといいます。 |
(18) | 鎌倉十橋のうち,問注所が近くにあったことが名前の由来になっているものは何か。 |
1 針磨橋 2 筋違橋 |
2 勝ノ橋 4 裁許橋 |
裁許橋は、問注所での裁判の結果、無罪放免となった者が渡った橋らしい。 勝ノ橋は、英勝寺を建てたお勝の方(英勝院尼)が架けた橋。 筋違橋は、和田合戦や宝治合戦の舞台となった橋。 針磨橋には、針金を磨いて針を作る老婆が住んでいた、あるいは、極楽寺塔頭に住んでいた我入道という僧侶が針を磨いていたという伝説が。 |
(19) | 松葉ヶ谷の法難のとき,サルに助けられた日蓮が逃げたのはどこにつづく裏山か。 |
1 朝夷奈切通 2 名越切通 3 極楽寺切通 4 大仏切通 |
1254年(建長6年)、名越切通を越えて鎌倉に入った日蓮は松葉ヶ谷に草庵を結びます。 1260年(文応元年)、草庵を焼討されてしまいますが(松葉ヶ谷法難)、3匹の白猿に助けられた日蓮は、お猿畠の岩窟に案内されたのだといいます。 |
逗子の法性寺は、お猿畠に建てられた寺。 法性寺の裏山は、名越切通に通じています。 |
(20) | 鎌倉という地名伝承の 1 つで,由井里(今の由比ヶ浜)に泊まった夜に不思議な夢を見たので,護身用に持参していた鎌(鎌槍)を大倉の松ヶ岡に埋めたと伝えられる人物はだれか。 |
1 源頼義 2 坂上田村麻呂 3 中臣(藤原)鎌足 4 日本武尊 |
鶴岡八幡宮や浄妙寺に残されている伝説では、藤原鎌足が大織冠という官位を授かり鹿島神宮へ詣でた折、持っていた鎌槍を埋めたことから「鎌倉」という地名が生まれたのだとか・・・。 |
大臣山 (鶴岡八幡宮) |
鎌足稲荷 (浄妙寺) |
自然・景観の問題 |
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