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鶴岡八幡宮は、明治維新を迎えるまでは神仏混淆の宗教施設で「鶴岡八幡宮寺」と呼ばれていた。 境内には、薬師堂、鐘楼などの仏教施設があったが、明治の神仏分離によって仏教施設は悉く廃除されてしまう。 大門とも呼ばれていた仁王門もその一つで、「鶴岡山」という額が掲げられてあったという。 幸いにして、安置されていた仁王像だけはその難を免れ、現在、壽福寺に安置されている。 扇ヶ谷の浄光明寺には、神仏分離以前まで代々神主を勤めた大伴家の墓地が残されている。 |
1868年(明治元年)3月に発せられた神仏分離令。 鶴岡八幡宮は1870年(明治3年)5月に神仏分離の届出をし、6月には境内の諸堂塔、仏像什器などの仏教に関するもの一切を破棄した。 御届書 鎌倉鶴岡八幡宮御社内在来之薬師堂、護摩堂、大塔、経蔵、鐘堂、仁王門、右混淆之仏堂取除キ、仁王門跡江華表建、内廊三面、塀垣別紙絵図面之通修理仕候、此段御届申上候、以上、 鎌倉 鶴岡八幡宮一社惣代 総神主筥崎博尹 明治三午年五月 神奈川県御役所 |
裏山には、鶴岡八幡宮寺供僧の住坊である二十五坊と別当坊(長官の宿舎)があった。 |
大伴家墓所 (浄光明寺) |
筥崎博尹の墓 (寿福寺) |
大伴家は代々鶴岡八幡宮寺の神主を務めた。 筥崎博尹は神仏分離後に鶴岡八幡宮の総神主となり、1882年(明治15年)には初代の宮司に就任している。 |
神宮寺の本尊だったという銅造薬師如来像(鎌倉国宝館に寄託)。 |
壽福寺仏殿の仁王像は仁王門に安置されていたもの。 |
弘法大師像 |
伝源頼朝坐像 |
青蓮寺の弘法大師像(鎖大師)は、二十五坊の一つ等覚院の本尊だった。 東京国立博物館に所蔵されている源頼朝像は、旧白旗神社の御神体だったといわれている。 |
来迎寺(西御門)の如意輪観音は、法華堂(現白旗神社(西御門))に安置されていたもの |
地蔵菩薩立像 |
薬師三尊像 |
瑞泉寺の地蔵菩薩立像(どこも苦地蔵)は、扇ヶ谷の智岸寺に置かれていたもので、智岸寺廃絶後、二十五坊の一つ正覚院に安置されていた。 あきる野市の新開院薬師堂に安置されているのは、鶴岡八幡宮寺の薬師堂に置かれていた薬師三尊像。 |
浅草寺宝蔵門 |
浅草寺二天門 |
浅草の浅草寺の宝蔵門には、北条政子が鶴岡八幡宮寺に奉納したという「元版一切経」が収められている。 かつて、浅草寺の二天門に安置されていたのは、鶴岡八幡宮寺の経蔵にあった二天だった。 |
地蔵菩薩像 |
鉄観音 |
横須賀市の東漸寺に安置されている地蔵菩薩像は、源頼朝が建立した松源寺にあったもの。 松源寺には、頼朝が信仰した伊豆日金山の日金地蔵尊の模刻が安置されていたのだという。 鶴岡八幡宮寺の僧の荼毘所だったといわれている。 東京人形町の大観音寺に安置されている鉄観音は、扇ヶ谷にあった新清水寺の本尊だったもので、鉄ノ井から頭だけが掘り出され、神仏分離までは鉄ノ井の前にあった鉄観音堂に安置されていた。 |
鶴岡八幡宮の図書館・鶴岡文庫に展示されている模型は、1591年(天正19年)に豊臣秀吉が作成させた「鶴岡八幡宮修営目論見絵図」(修理の設計図)をもとに作られたもの。 |
鶴岡八幡宮は、1063年(康平6年)に源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請して創建した鶴岡若宮を前身とし、1180年(治承4年)に源頼朝が現在地に遷した。 以後、武家の都「鎌倉」の中心に置かれ、長く武家の崇敬を集めた。 |
鎌倉市雪ノ下2−1−31 0467(22)0315 鎌倉駅東口より徒歩10分 |
鶴岡八幡宮の長官は僧侶で「別当」と呼ばれ、神職よりも上の地位にあった。 |
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