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寿福寺にある筥崎博尹(はこざきひろただ)の墓。 筥崎は鶴岡八幡宮寺の正覚院の供僧だったが、1868年(慶應4年)3月、明治新政府が神仏分離令を発布すると、復飾(還俗)して筥崎博尹を名乗った。 『鶴岡八幡宮年表』によると・・・ 復飾(還俗)した供僧・小別当は、総神主・大禰宜と称するようになったのだという。 1869年(明治2年)2月に神奈川県から総神主に任ぜられ、10月に神祇官より神職に補される。 1870年(明治3年)5月、県庁に神仏分離の届出をし、6月には境内の諸堂塔、仏像什器などの仏教に関するもの一切を破棄した。 1882年(明治15年)10月11日、鶴岡八幡宮の初代宮司に就任。 江島神社の祠官(神職)も兼ねていたのだという。 1897年(明治30年)2月26日没(67歳)。 |
鶴岡八幡宮 |
二十五坊跡 |
神仏分離令が出されるまでの鶴岡八幡宮は神仏混淆の宗教施設だった。 二十五坊は源頼朝が設置した供僧坊で、明治維新まで十二坊が存続していたが、供僧が復飾(還俗)したことで廃絶した。 |
寿福寺は、源義朝の旧跡に北条政子が創建したといわれる寺。 開山は、我が国臨済宗の開祖で『喫茶養生記』で知られる栄西。 鎌倉五山の第三位。 |
鎌倉市扇ガ谷1−17−7 鎌倉駅西口より徒歩10分 |
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