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歴史・旧跡に関する記述について、最も適当なものを1〜4から選びなさい。 |
(1) | 『吾妻鏡』によると、源氏ゆかりの地鎌倉を根拠地とするように源頼朝に進言したとされ る人物はだれか |
1 三浦義明 3 千葉常胤 |
2 上総広常 4 北条時政 |
1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をした源頼朝は石橋山で敗れ、真鶴から舟で安房へ渡りました。 千葉常胤、上総広常らの参陣を得た頼朝は、10月に鎌倉入りを果たします。 頼朝に鎌倉を本拠とするよう進言したのは千葉常胤だったといいます。 鎌倉入りを進言した千葉常胤 |
(2) | 源実朝が征夷大将軍の時に滅ぼされた御家人の組み合わせはどれか。 |
1 比企能員・梶原景時 2 和田義盛・比企能員 3 比企能員・畠山重忠 4 和田義盛・畠山重忠 |
源実朝が将軍だったのは1203年(建仁3年)9月〜1219年(建保7年)正月まで。 この間に起こったのは1205年(元久2年)の畠山重忠の乱と、1213年(建暦3年)の和田合戦。 梶原景時は1199(正治元年)に鎌倉を追放され翌年駿河国清見関で討たれました(梶原景時の変)。 比企能員は1203年(建仁3年)に北条時政によって暗殺され、その後、二代将軍頼家が伊豆修禅寺に幽閉されています(比企の乱)。 |
(3) | 源頼朝の父義朝の恩に報いるために、現在、壽福寺がある地に草堂を建てた人物はだれか。 |
1 三浦義村 3 岡崎義実 |
2 阿野全成 4 北条政子 |
1180年(治承4年)10月、鎌倉に入った源頼朝は、父義朝の旧跡を訪れています。 そして、ここに御所を建てようと考えていましたが、岡崎義実が義朝のために建てた御堂があったことなどから、この地を諦めて大倉の地にしたのだといいます。 |
壽福寺 |
大倉幕府跡 |
(4) | 一説では、富士の巻狩の最中、曾我兄弟が仇討ちをしたときの騒動に紛れて、源頼朝に対 して謀反を企てたという疑いで伊豆に追放され、後に殺害されたといわれているのはだれか。 |
1 平賀朝雅 3 源頼家 |
2 源範頼 4 畠山重忠 |
1193年(建久4年)の富士裾野の巻狩りでは、曾我兄弟が工藤祐経を討つという仇討ち事件がありました。鎌倉には「頼朝も討たれた」という報が伝わり、うろたえる北条政子に源範頼は「私がいるから大丈夫」といったのだといいます。 その後、範頼は謀反の罪で伊豆修禅寺に幽閉され、間もなく暗殺されたのだと伝えられています。 |
曾我兄弟の仇討ち |
源範頼の墓 |
(5) | 北条時宗が幼少であったため、眼代として執権を務めたが、蒙古襲来の国難に際して執権を退き、再び連署となって時宗を補佐した人物はだれか。 |
1 北条政村 3 北条長時 |
2 北条重時 4 北条経時 |
1256年(康元元年)、5代執権北条時頼が執権を退くと、北条長時が6代執権となります。 1264年(文永元年)に長時が亡くなると、連署だった北条政村が7代執権となりました。 1268年(文永5年)、蒙古襲来の危機に得宗の北条時宗が執権となり、政村は再び連署となっています。 |
(6) | 源頼朝が雪ノ下の大御堂に勝長寿院を創建したのは何のためか。 |
1 | 父の供養のため |
2 | 奥州藤原氏や弟の鎮魂、慰霊のため |
3 | 妻の母の供養のため |
4 | 元との戦いの戦死者の菩提を弔うため |
勝長寿院は、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために創建しました。 2の奥州藤原氏や弟義経の鎮魂、慰霊のために創建したのは永福寺。 3は、北条泰時が建てた粟船御堂(常楽寺)、4は北条時宗が建てた円覚寺の創建理由。 参考までに、頼朝は母の供養のために鶴岡八幡宮に五重塔を創建しています。 |
(7) | 太平寺は現在の何という社寺の辺りにあったか。 |
1 鎌倉宮 2 八雲神社(西御門) 3 白旗神社 4 宝戒寺 |
鎌倉尼五山の第1位だった太平寺は、西御門にありました。 1556年(弘治2年)、安房の里見義弘が鎌倉に攻め入った際に住職の青岳尼(義弘の最初の正室)が安房に渡ったため北条氏康によって廃寺とされています。 |
太平寺跡 |
八雲神社 |
(8) | 「鎌倉五名水」について、記載された史料はどれか。 |
1 『倭名類聚抄』 2 『吾妻鏡』 3 『新編鎌倉志』 4 『新編相模国風土記稿』 |
鎌倉五名水について記載されたもの・・・。 1、2は論外として、3か4のどちらかです。 鎌倉五名水については、どちらにも記載されているようですが、「五名水を選定した地誌」ということで『新編鎌倉志』となるのでしょうか・・・。 |
鎌倉五名水 |
新編鎌倉志 |
(9) | 鎌倉往還・鎌倉街道・鎌倉道について、次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 |
1 | 鎌倉を起点として放射状に延びる中世期の基幹道を、『吾妻鏡』では、「鎌倉往還」とい い、室町時代になってからは、「鎌倉街道」と称せられるようになった。 |
2 | 『新編相模国風土記稿』によると、鎌倉郡には小往還が7つあり、そのうち5つを鎌倉 道と呼び、鶴岡八幡宮へ参詣する道であった。 |
3 | 一般には、南北朝時代の『太平記』や『梅松論』にある上の道、中の道、下の道の3つ が、後世、鎌倉街道と呼ばれる主要路となった。 |
4 | 鎌倉往還は、鎌倉幕府が滅びた後も、室町幕府が鎌倉に鎌倉府を置いて、政治的拠点と して位置付けていたため、依然として重要なルートであった。 |
「鎌倉街道」と称されるようになったのは江戸時代になってからのことのようです。 |
鎌倉七口 |
流鏑馬馬場 (鎌倉道の起点) |
(10) | 地名の由来について、次の説明文で内容に誤りがあるのはどれか。 |
1 | 坂ノ下は、鎌倉七口の一つである極楽寺切通の下にある地域だったことに由来するという。 |
2 | 腰越は、北の山に住んでいた人が南の海際の肥えた土地を求めて、山の腰を越えるように移り住んできたことに由来するという。 |
3 | 今泉は、日蓮が掘った二つの滝(称名寺の男滝、女滝)に由来するという。 |
4 | 佐助は、佐介氏の祖となった北条時盛が邸を構えたことに由来するという。 |
稱名寺の男滝と女滝は、弘法大師(空海)の伝説が残された滝。 |
歴史・旧跡について関連のあることがらの組み合わせとして誤っているものを1〜4から選びなさい。 |
(11) | 城址と関わりが深い人物 |
1 住吉城址−三浦道寸 2 杉本城址−北畠顕家 3 天神山城址−坂上田村麻呂 4 玉縄城址−北条早雲 |
住吉城は三浦道寸と北条早雲が奪い合いをした城。 玉縄城は道寸攻略のために早雲が築城した城。 杉本城は、平安時代末からの三浦氏の拠点だった城で、鎌倉幕府滅亡後、風林火山の旗印を掲げた北畠顕家の鎌倉攻めによって落城しました。 参考までに、巽神社は、坂上田村麻呂が葛原ヶ岡に勧請したのが始まりと伝えられています。 |
(12) | やぐらと寺社 |
1 お塔やぐら−瑞泉寺 2 多宝寺址やぐら群−壽福寺 3 瓜ヶ谷やぐら群−葛原岡神社 4 釈迦堂ヶ谷奥やぐら群−浄妙寺 |
お塔やぐらは瑞泉寺の裏山に、多宝寺址やぐら群は浄光明寺の東の多宝ヶ寺谷に、瓜ヶ谷やぐら群は葛原岡神社北側になるのでしょうか。 釈迦堂ヶ谷やぐら群は、宝戒寺二世の普川国師入定窟を中心とするやぐら群といわれています。 |
歴史・旧跡について、次の説明文の[ ]に最も適当なものを1〜4から選びなさい。 |
北条泰時は幕府を大倉から〔 (13) 〕に移し、有力御家人の合議で重要政策を決定するために評定衆11名を任命し、武家による最初の法令集〔 (14) 〕を定め、執権政治を確立 した。また、〔 (15) 〕に和賀江嶋を築港し、金沢街道に〔 (16) 〕を開き、通商路の整備を行うなど、鎌倉が経済的に繁栄するもととなる多くの功績を残した。 泰時の墓は〔 (17) 〕にある。 |
(13) | |
1 二階堂大路 3 若宮大路 |
2 田楽辻子 4 宇津宮辻子 |
北条泰時は、1225年(嘉禄元年)、北条政子が亡くなると大倉幕府を宇津宮辻子に移します。 さらに、1236年(嘉禎2年)には若宮大路に移しています。 |
(14) | |
1 建武式目 3 武家諸法度 |
2 御成敗式目 4 分国法 |
北条泰時は、1232年(貞永元年)、武家の法典「御成敗式目」を制定します。 |
(15) | |
1 材木座 3 小動 |
2 七里ヶ浜 4 稲村ヶ崎 |
1232年(貞永元年)、北条泰時は、往阿弥陀仏の申請により、和賀江嶋の築港を許可しました。 |
(16) | |
1 仮粧坂 3 朝夷奈切通 |
2 極楽寺切通 4 名越切通 |
幕府は、1240年(仁治元年)11月、鎌倉と六浦を結ぶ往環路(朝夷奈切通)を造ることを決定し、翌年4月5日に工事が着手されています。 |
(17) | |
1 法華堂跡 3 明月院 |
2 常楽寺 4 円覚寺 |
1237年(嘉禎3年)、北条泰時は妻の母の供養のために「粟船御堂」を建立。それを前身としている常楽寺に墓があります。 |
宇津宮辻子幕府跡 |
和賀江嶋 |
朝夷奈切通 |
北条泰時墓 |
後醍醐天皇により、鎌倉幕府打倒を計画した正中の変で、〔 (18) 〕は一度は許されたものの、再び倒幕を企て(元弘の変)、鎌倉に護送され、仮粧坂に近い〔 (19) 〕で斬首された。その刑場跡に建つ神社境内の宝篋印塔は、その墓といわれ、〔 (20) 〕である。 |
(18) | |
1 日野資朝 3 日野俊基 |
2 大宗氏 4 護良親王 |
(19) | |
1 地獄谷 3 龍ノ口 |
2 葛原ヶ岡 4 由比ヶ浜 |
(20) |
1 国の重要文化財 2 県の重要文化財 3 市の重要文化財 4 国指定史跡 |
葛原岡神社の祭神・日野俊基は、1332年(元弘2年)6月3日、倒幕を企てたとして葛原ヶ岡で斬首されました(元弘の変)。 元弘の変で捕えられて鎌倉へ送られてきた者の中には、のちに宝戒寺の開山となる円観もいました。 前の正中の変で捕らえられた日野資朝も配流先の佐渡で斬首されています。 |
(18) 3 (19) 2 (20) 4 |
葛原岡神社 |
日野俊基墓 |
自然・景観の問題 |
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