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歴史・旧跡に関する記述について、最も適当なものを1〜4から選びなさい。 |
(1) | 鎌倉にある寺社のうち,奈良時代に建立されたという伝承をもつものは,長谷の甘縄神明神社,二階堂の杉本寺とあと一つはどこか。 |
1 青蓮寺 3 御霊神社 |
2 長谷寺 4 荏柄天神社 |
青蓮寺は819年(弘仁10年)、長谷寺は736年(天平8年)、荏柄天神社は1104年(長治元年)。 御霊神社の創建年はわかりませんが、平安時代の末と考えられているようです。 奈良時代は710年(和銅3年)から794年(延暦13年)。 |
(2) | 「鎌倉」の地名が記された最も古い文献とされているのは何か。 |
1 『日本書紀』 2 『万葉集』 3 『古事記』 4 『倭名類聚抄』 |
(3) | 『吾妻鏡』によると,面会の折,源頼朝が西行に贈った銀の引き出物は何の動物を象ったものか。 |
1 カメ 3 イヌ |
2 ネコ 4 ツル |
1186年(文治2年)8月15日、東大寺再建の勧進のため奥州へ赴く途中の西行が鎌倉に立ち寄りました。 源頼朝は、御所に西行を招いて和歌や弓馬について尋ねたのだといいます。 翌日、西行は頼朝の館を辞します。 頼朝は銀で作られた猫を西行に贈りますが・・・ 西行は、門の外で遊んでいた子どもたちに玩具として与えてしまったのだとか。 翌年、頼朝は放生会を催し、流鏑馬を奉納しています。 これが鶴岡八幡宮例大祭の始まりなのだと伝えられています。 |
例大祭 |
流鏑馬 |
(4) | 1203年(建仁3)に将軍職を退かされ,翌年に幽閉先の伊豆修禅寺で暗殺された人物はだれか。 |
1 源頼義 3 源為朝 |
2 源義朝 4 源頼家 |
鎌倉幕府二代将軍の源頼家は、1203年(建仁3)に起こった比企氏の乱後に出家させられ、伊豆修禅寺に幽閉されました。 そして、翌年、暗殺されています。 |
修禅寺 |
源頼家の墓 (修禅寺) |
(5) | 1232年(貞永元)に北条泰時によって定められた法令で,源頼朝の先例や武家社会の慣習を基とした日本最初の武家成文法を何というか。 |
1 御成敗式目 3 武家諸法度 |
2 建武式目 4 貞観格式 |
1232年(貞永元年)、三代執権北条泰時によって武家の法典「御成敗式目」が制定されました。 全51条からなるもので、51条という数は17の3倍で、聖徳太子の憲法17条に由来する数なのだとか。 |
(6) | 北条氏の権力を確立するために,宝治合戦で5代執権北条時頼が滅ぼした有力御家人は何氏か。 |
1 安達氏 3 和田氏 |
2 三浦氏 4 千葉氏 |
宝治合戦は、北条時頼と三浦泰村との戦い。 館に火をかけられた泰村は、源頼朝の法華堂に籠もり、一族とともに自刃しました。 鎌倉十橋の一つ筋違橋は、戦端が開かれた所といわれています。 |
筋違橋 |
三浦一族墓 |
(7) | 文永・弘安の役で元軍を撃退した8代執権はだれか。 |
1 北条長時 3 北条時宗 |
2 北条政村 4 北条貞時 |
蒙古襲来(元寇:文永・弘安の役)の危機に執権に就任したのは北条時宗。 苦悩の中、2度にわたる蒙古の襲来を凌ぎました。 円覚寺は、元寇の犠牲者を弔うために創建されました。 |
円覚寺 |
元使塚 |
(8) | 室町時代に設置された鎌倉府の長官である鎌倉公方を最初に任ぜられたのはだれか。 |
1 足利氏満 3 足利持氏 |
2 足利基氏 4 足利満兼 |
鎌倉幕府滅亡後の鎌倉は足利義詮(尊氏の嫡子、のちの室町幕府二代将軍)が治めていましたが、1349年(貞和5年・正平4年)、義詮に代わって基氏(尊氏の三男)が鎌倉公方として鎌倉に入ります。 |
(9) | 1889年(明治22)の出来事で,鎌倉が保養地・別荘地として発展するきっかけとなったのは何か。 |
1 | 横須賀線の大船―横須賀間開通 |
2 | 江ノ電の全線開通 |
3 | 自動車専用道路の大船―片瀬間開通 |
4 | 湘南有料道路(現国道134号線)の開通 |
1889年(明治22年)、東海道線の支線として横須賀線が敷かれ、同年、鎌倉・逗子・横須賀の各駅が開業しています。 江ノ電の全線開通は、1910年(明治43年)。 大船−江の島間を結ぶ日本最初の自動車専用道路が開通したのは、1930年(昭和5年)。 湘南有料道路が存在したのは、1956年(昭和31年)から1986年(昭和61年)まで。 |
(10) | 1936年(昭和11)に,鎌倉在住の作家によって結成された鎌倉ペンクラブの初代会長はだれか。 |
1 川端康成 3 里見ク |
2 久米正雄 4 大佛次郎 |
(11) | 一般的なやぐらの形から珍しい様式のものまで,鎌倉にあるほぼすべてのやぐらの形式が見られるのはどこか。 |
1 瑞泉寺やぐら群 2 瓜ヶ谷やぐら群 3 多宝寺跡やぐら群 4 百八やぐら |
天園ハイキングコース上で見ることができる百八やぐらは、鎌倉で最大のやぐら群。 |
瓜ヶ谷やぐら群 多宝寺跡 百八やぐら |
(12) | 典型的な中世の山城で鎌倉にとって辺境の守りの拠点だったが,建武のころ,朝廷(後醍醐天皇)方の武将北畠顕家らによって落城したという城址はどこか。 |
1 住吉城址 3 玉縄城址 |
2 杉本城址 4 天神山城址 |
北畠顕家は、朝夷奈切通から鎌倉に入り、斯波家長の守る杉本城を攻めて落城させました。 |
玉縄城址 |
住吉城址 |
(13) | 源氏三代と尼将軍とも呼ばれた北条政子の時代に,幕府が置かれた場所とされる旧跡はどこか。 |
1 宇津宮辻子幕府跡 2 大倉幕府跡 3 若宮大路幕府跡 4 由比若宮幕府跡 |
1180年(治承4年)、鎌倉入りをした源頼朝は大倉の地に御所を構えました(大倉幕府)。 1225年(嘉禄元年)、北条政子の死後、大倉幕府は宇津宮辻子に移され、さらに、11年後には若宮大路に移されました。 |
(14) | 奥州藤原氏の築いた平泉の中尊寺大長寿院を模して,源頼朝が造営したという壮大な寺院の旧跡はどこか。 |
1 勝長寿院跡 2 永福寺跡 3 東勝寺跡 4 太平(高松)寺跡 |
1189年(文治5年)に行われた奥州征伐。 その時、源頼朝は平泉の寺院を見ました。 1192年(建久3年)に完成した永福寺は、頼朝が見た中尊寺、毛越寺、無量光院などを模して建てられました。 本堂は、中尊寺の大長寿院の二階大堂を模したものだったといいます。 |
中尊寺 |
大長寿院 |
毛越寺 |
無量光院跡 |
(15) | 関東大震災で鎌倉御用邸は倒壊したが,入口にあった門はどこに残されているか。 |
1 御成中学校 2 御成通り(鎌倉銀座) 3 御成小学校 4 鎌倉市役所 |
明治天皇の皇女のための御用邸は、1923年(大正12年)の関東大震災で崩壊後再建されませんでした。 1933年(昭和8年)、御用邸跡地に鎌倉町立御成小学校が開校。 正門には御用邸の冠木門が引き継がれています。 |
(16) | 鎌倉十井のうち,小町通り北の端,鶴岡八幡宮に通じる道の角にあり,水がどんなときでも涸れたことがないといわれる井戸は何か。 |
1 鉄ノ井 3 甘露ノ井 |
2 泉ノ井 4 底脱ノ井 |
小町通りのはずれにあるのは、鉄の観音像の頭が出てきたという伝説が残された鉄ノ井。 その観音像は東京人形町の大観音寺にあります。 |
鉄ノ井 |
鉄観音 |
(17) | 梶原太刀洗水は梶原景時がある武将を斬った血のりを洗い流したという湧き水であるが,その武将はだれか。 |
1 木曽義仲 3 上総介広常 |
2 大庭景親 4 平忠盛 |
1180年(治承4年)、石橋山の戦いに敗れ、真鶴から安房に渡った源頼朝。 鎌倉入りを目指す頼朝軍に2万騎を率いて参陣したのが上総広常でした。 しかし、1183年(寿永2年)12月、謀反の疑いをかけられ、梶原景時に暗殺されました。 |
梶原太刀洗水 |
上総介塔 |
(18) | 以前は建長寺門前にあったが,現在は歩道の敷石にその位置が示されているのみで,徳川 光圀の『鎌倉日記』や「建長寺境内絵図」に描かれている泉は何か。 |
1 日蓮乞水 3 甘露水 |
2 金龍水 4 不老水 |
建長寺の西外門の前にあったのは、鎌倉五名水の一つ金龍水。 |
(19) | 訴訟の判決を出す幕府の役所である問注所が近くにあったことが名前の由来になっている鎌倉十橋の一つは何か。 |
1 勝ノ橋 3 針磨橋 |
2 筋違橋 4 裁許橋 |
伝説によると、東大寺再建の勧進のため奥州へ向う途中の西行が鎌倉に立ち寄った際、この橋の上で源頼朝に声をかけられたのだとか・・・ そのため西行橋ともいわれていたらしい。 |
裁許橋 |
問注所跡碑 |
(20) | 2016年(平成28)3月に大規模改修が終了した,源頼朝が妻政子の安産を祈願して,その大路とともに「段葛」を造営させたとされている大路はどこか。 |
1 若宮大路 3 西大路 |
2 大町大路 4 小町大路 |
源頼朝は鶴岡八幡宮を鎌倉の中心に据えて街づくりを行っています。 参道の若宮大路は、1182年(養和2年)、北条政子が懐妊したことを機に造営が開始されました。 平安京の朱雀大路を模して造営され、中央には段葛が築かれました。 |
若宮大路 |
段葛 |
自然・景観の問題 |
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