|
次の文の〔 @ 〕,〔 A 〕に最も適当な語句を書きなさい。ただし,〔 @ 〕,〔 A 〕 両方できて正解とする。(各 2 点) |
〔 @ 〕,〔 A 〕ともに漢字で書きなさい。 |
(41) | 建久4年(1193)5月,富士の裾野で〔 @ 〕十郎祐成・五郎時致兄弟が父の敵工藤祐経を殺害する事件がおこった折,源頼朝も討たれたとの噂に動揺した北条政子を,「私がいるから心配ない」と慰めたことが,謀叛の疑いありとして〔 A 〕は鎌倉を追放され,のちに殺害された。 |
征夷大将軍となった源頼朝が催した大軍事演習・富士裾野の巻狩りでは、曽我兄弟の仇討ち事件が起こり、工藤祐経が殺害されました。 『保暦間記』によると、鎌倉には「頼朝も討たれた」という誤報が伝わり、心配する北条政子に対して源範頼は「私がいるから心配ない」と発言。 それを知った頼朝は、範頼の謀反を疑ったのだといいます。 範頼は疑いを晴らすため頼朝に起請文を提出しますが、署名に「三河守源範頼」と書いてしまい、さらに頼朝を怒らせてしまったのだとか。 「源」を名乗ることができるのは頼朝ののみ・・・ |
※ | 「曽我」を「曾我」と書かせるのが鎌倉検定。 それはいいが、「安国論寺」は「安國論寺」とはならないという不思議さもある(参考:問31) |
謀反の疑いをかけられた源範頼は、修禅寺(信功院)に幽閉され、その後、梶原景時に攻められて自刃したのだと伝えられています。 |
〔 @ 〕,〔 A 〕ともに漢字で書きなさい。 |
(42) | 北条政子は,源義朝の恩に報いるため〔 @ 〕が草堂を建てていた地を,栄西に寄進し,〔 A 〕寺の造営を始めた。 |
北条政子建立と伝えられる壽福寺は、源頼朝の父義朝の旧蹟(亀谷館跡)に建てられた寺。 1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をして鎌倉に入った頼朝は、当初この地に御所を置こうと考えましたが、土地が狭く、亡き父の御堂(岡崎義実による造立)もあったことから大倉の地を選んだのだといいます。 頼朝の死後、政子は、その「亀谷の土地」を栄西に寄付。 1200年(正治2年)閏2月13日、三善康信(善信)と二階堂行光の奉行によって、壽福寺建立の「造作始め」が行われました。 |
壽福寺は、鎌倉五山第三位。 創建当初の壽福寺は、天台・真言・禅の三宗兼学の寺院で、鎌倉で数多くの供養・修法の導師を勤めた栄西の行法も、ほとんどが密教的であったといわれています。 参考までに、源頼家が創建した京都建仁寺も栄西の開山で三宗兼学でした。 |
〔 @ 〕,〔 A 〕ともに漢字で書きなさい。 |
(43) | 現存する日本最古の築港遺跡である〔 @ 〕は,九州筑前でも港を築いた実績のある勧進僧〔 A 〕の申請を,3代執権北条泰時が受け入れ,1か月ほどで完成させたものといわれる。 |
材木座海岸にある和賀江嶋は、現存する我が国最古の築港。 三代執権北条泰時の許しを得た往阿弥陀仏という勧進僧が、相模川や酒匂川などから運ばれた石を海中に積み上げて造り上げたのだと伝えられています。 |
和賀江嶋は、潮が引くと姿を現します。 鎌倉時代には極楽寺の管理下にありました。 |
〔 @ 〕は漢字で書きなさい。 |
(44) | 稲村ヶ崎は,現在,海浜公園として整備され,1908年(明治41)に教え子の〔 @ 〕 と鎌倉を訪れた,近代細菌学の祖といわれる〔 A 〕の記念碑がある。 |
稲村ヶ崎は、由比ヶ浜と七里ヶ浜を分ける岬。 源頼朝の前に壇ノ浦の戦いで海に沈んだ安徳天皇の怨霊が現われたという地。 新田義貞の黄金の太刀の伝説が残された地。 かつて、霊山山にあったロベルト・コッホ記念碑が移されています。 |
@ 北里柴三郎 A ロベルト・コッホ |
稲村ヶ崎 |
ロベルト・コッホ 記念碑 |
ロベルト・コッホ記念碑は、北里柴三郎が霊山山にあった「霊山園」にロベルト・コッホを案内したことを記念して建てられました。 2024年(令和6年)7月発行の新千円札には、北里柴三郎の肖像が採用されています。 |
〔 @ 〕は漢字 7 字,〔 A 〕は漢字で書きなさい。 |
(45) | 鎌倉市内に知られているものだけで1000基を超すと言われる「やぐら」とは,中世鎌倉を取り巻く丘陵山腹を穿って造られた〔 @ 〕などの総称である。杉ヶ谷と呼ばれる谷戸の斜面にまとまってある〔 A 〕やぐらは,鎌倉にあるほぼすべてのやぐらの形式が見られる。 |
鎌倉時代の武士などの埋葬は、源頼朝や北条義時の法華堂で知られているように、法華堂と呼ばれる堂に葬るという方法でした。 しかし、承久の乱を経て、鎌倉の権力が増大して人口も増えると、法華堂を建てて葬るだけの平地の確保が難しくなってきます。 そのため、横穴式の墳墓を造ったものと考えられています。 |
覚園寺の山門跡から天園ハイキングコースへと向かう山道を進むとあるのが百八やぐら。 江戸から明治にかけては、「弘法大師八十八箇所霊場」で、八十八体の弘法大師像が置かれていたらしい。 |
〔 @ 〕,〔 A 〕ともに漢字で書きなさい。 |
(46) | 〔 @ 〕の墓は,西御門にある源頼朝の墓の東側,山の中腹にある3 つのやぐらの中央とされ,十二所の〔 A 〕裏山にも〔 @ 〕の墓と伝わる層塔がある。 |
源頼朝墓の東側の山の中腹に並ぶ三つの「やぐら」は、中央が大江広元、左がその子で毛利氏の祖となる毛利季光、右が源頼朝の子ともいわれる島津忠久の墓。 |
大江広元墓 (西御門) |
伝大江広元墓 (胡桃山) |
西御門の法華堂跡にある大江広元墓は、1823年(文政6年)に長州藩によって建てられたもの。 胡桃山(明王院裏山)には鎌倉期のものと考えられる五層塔があって、大江広元の墓と伝えられています。 |
〔 @ 〕,〔 A 〕ともに漢字で書きなさい。 |
(47) | 大御堂橋の西側には,〔 @ 〕が住んでいたといわれる屋敷跡がある。大御堂橋の下を流れる滑川のことを,古くはこの〔 @ 〕にちなんで〔 A 〕川といったと伝わる。 |
滑川に架かる大御堂橋の文覚上人屋敷跡から報国寺へと至る道は「田楽辻子のみち」と呼ばれています。 六つの名を持つことで知られる滑川は、文覚の屋敷前では「坐禅川」と呼ばれていました。 |
伊豆の流人だった源頼朝に挙兵を勧めたという文覚。 頼朝の御所の南、大御堂(勝長寿院)の西に屋敷があったのだといわれています。 |
〔 @ 〕,〔 A 〕ともに漢字で書きなさい。 |
(48) | 日蓮袈裟掛松は鎌倉十橋の〔 @ 〕橋から稲村ヶ崎に向かう途中にある。1271年(文永8),『立正安国論』を著して幕府に捕らえられた日蓮が,〔 A 〕刑場へ連れられて行く途中,袈裟を血で汚すのはおそれ多いと松に掛けたと伝えられる。 |
1271年(文永8年)9月12日、日蓮は、幕府や諸宗を批判したことで平頼綱(北条時宗の執事)によって捕えられ、龍ノ口刑場に護送されます(龍ノ口法難)。 |
針磨橋 |
袈裟掛けの松 |
針磨橋は、極楽寺川に架かる鎌倉十橋の一つ。 日蓮袈裟掛けの松の大きな石碑の横の石碑には光則寺日仁の名が刻まれ、針磨橋との間には袈裟掛の松を守っていたという日実法師の碑があります。 松の枝に袈裟を掛けた後、龍ノ口刑場に護送された日蓮は、処刑が中止となり佐渡に流されています。 |
〔 @ 〕は漢字,〔 A 〕は 3 字で書きなさい。 |
(49) | 「鎌倉」の名の由来の一つとして,〔 @ 〕が鹿島神宮への参拝の途中,由井里に泊まった夜に不思議な夢を見たので,護身用に持参していた鎌(鎌槍)を大倉の〔 A 〕に埋めたという伝説がある。 |
鹿島神宮参詣の途中で由比の里(現鎌倉)に宿泊した藤原鎌足(中臣鎌足)は、夢に現れた老人から「鎌槍をこの地に埋めれば天下はよく治まる」というお告げを受けたのだと伝えられています。 鎌倉という地名は、この鎌足の「鎌槍」から生まれたという説があります。 鎌足は中臣氏の一族で中臣鎌子と名乗っていましたが鎌足に改名。 亡くなる前日に大織冠を授けられ藤原姓を賜ったのだといわれています。 |
鎌足稲荷神社 |
鎌足桜 |
鎌槍伝説は鶴岡八幡宮裏山の大臣山にも残されていますが、浄妙寺の鎌足稲荷神社は鎌足が営んだ祠が始まりといわれています。 2008年(平成20年)には、鎌足の伝承が残る鎌足桜が浄妙寺に寄贈されました。 |
〔 @ 〕は漢字,〔 A 〕は 3 字で書きなさい。 |
(50) | 鎌倉発祥のサクラとして,源実朝が歌に詠んだ永福寺や勝長寿院などに植えられていたものと同種ではないかといわれている〔 @ 〕桜や,江戸時代に後水尾天皇が御車を返して花容を確かめたといわれる〔 A 〕桜がある。 |
鎌倉原産の桜として知られているのは、オオシマザクラの突然変異種とされる普賢象(ふげんぞう)と桐ヶ谷(きりがや)。 |
普賢象 |
桐ヶ谷 |
普賢象はソメイヨシノの後に開花する遅咲きの八重桜。 桐ヶ谷はソメイヨシノより少し遅れて開花する八重と一重が混生する桜。 この2つの桜は、室町時代に足利尊氏によって京都に持ち込まれ、桐ヶ谷は京都御所の紫宸殿の左近の桜として植えられました。 室町幕府三代将軍の足利義満は、仁和寺辺りに植えられていた普賢象の美しさに心を打たれたのだといいます。 後小松天皇を北山殿(金閣寺)に招いた際には、御小松天皇から引接寺(千本ゑんま堂)の桜を薦められ、境内に咲き誇る普賢象を観て感嘆したのだとも伝えられています |
|
|
★鎌倉検定の受検お申し込みは 鎌倉商工会議所ホームページへ |
|