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歴史・旧跡に関する記述について、最も適当なものを1〜4から選びなさい。 |
(1) | 鎌倉の寺社のうち、平安時代に建立されたという伝承をもつのは、材木座の由比若宮、坂ノ下の御霊神社、二階堂の荏柄天神社とあと一つはどこか。 |
1 杉本寺 3 青蓮寺 |
2 長谷寺 4 極楽寺 |
由比若宮は1063年(康平6年)、源頼義が石清水八幡宮を勧請して創建しました。 御霊神社の創建年は明らかではありませんが、鎌倉権五郎景政との関係からすると平安時代末の創建と考えられます。 荏柄天神社は1104年(長治元年)の創建と伝えられています。 あと一つの平安時代創建の寺社は、819年(弘仁10年)に弘法大師によって開かれたという青蓮寺。 杉本寺は734年(天平6年)、長谷寺は736年(天平8年)の創建と伝えられ、ともに奈良時代。 極楽寺は鎌倉時代。 |
(2) | 1203年(建仁3)、病に倒れ、将軍職を退かされ、最後は幽閉先の伊豆修禅寺で暗殺された人物はだれか。 |
1 源頼義 3 源実朝 |
2 源義朝 4 源頼家 |
二代将軍源頼家は、1203年(建仁3年)の比企の乱後、伊豆修禅寺に幽閉され、翌年、暗殺されました。 |
源頼家の墓 |
指月殿 |
修禅寺の源頼家の墓の横には、母北条政子が、頼家の冥福を祈って建立したとい指月殿があります。 |
(3) | 1232年(貞永元)に、北条泰時によって定められた法令で、源頼朝の先例や武家社会の慣習を基とした日本最初の武家成文法を何というか。 |
1 御成敗式目 3 武家諸法度 |
2 建武式目 4 貞観格式 |
北条泰時が定めた武家の法典「御成敗式目」は51ヶ条からなり、貞永式目とも呼ばれています。 |
(4) | 鎌倉の経済を支える海上貿易の拠点として、北条泰時の許可によってつくられた現存する日本最古の築港遺跡を何というか。 |
1 信玄堤 3 片瀬東浜 |
2 江の島 4 和賀江嶋 |
飯島岬から約200メートルにわたって海中に積み上げて築かれた和賀江嶋。 |
(5) | 宝治合戦で三浦氏を滅ぼし、北条氏(得宗)の権限をさらに強固にした執権はだれか。 |
1 北条義時 3 北条貞時 |
2 北条時頼 4 北条時宗 |
北条執権政治で、一番充実していたといわれるのが五代執権北条時頼の時代。宝治合戦で有力御家人の三浦氏を滅ぼし、得宗専制の政治を行いました。 |
北条時頼坐像 |
北条時頼廟 |
(6) | 初代に足利尊氏の子基氏がつき、関東八ヶ国に甲斐、伊豆を合わせた東国十ヵ国を統治した職制を何というか。 |
1 鎌倉公方 3 堀越公方 |
2 古河公方 4 征夷大将軍 |
室町時代、鎌倉には鎌倉府が置かれ、その長官は鎌倉公方と呼ばれました。初代には足利尊氏の四男基氏が就任しています。 |
(7) | 1363年(貞治2・正平18)に足利基氏の補佐役として上杉憲顕が任命された職制を何というか。 |
1 関東管領 3 連署 |
2 執権 4 内管領 |
執権は将軍を補佐する役、連署は執権を補佐する役、内管領は北条得宗家の執事。 鎌倉公方の補佐役は関東管領と呼ばれました。 |
(8) | 日本の衛生行政に充実に尽力し、鎌倉の海(由比ヶ浜)を「海水浴場として理想的な海である」と紹介した医師はだれか。 |
1 長与専斎 2 北里柴三郎 3 エルウイン・ベルツ 4 ロベルト・コッホ |
長与専斎は、1884年(明治17年)、鎌倉の海を「海水浴の最適地」として推奨。鎌倉大仏の傍らには、専斎の功績を讃える碑が建てられています。 由比ヶ浜にあったわが国最初の海浜サナトリウム「海浜院」(結核療養所)の設立にも携わっています。 |
海水浴場開場 百年記念碑 |
長与専斎の碑 |
(9) | 江戸時代には富士山を望む景勝地として多くの浮世絵に描かれ、最近では「日本の渚百選」にも選ばれているのはどこか。 |
1 和賀江嶋 3 七里ヶ浜 |
2 稲村ヶ崎 4 由比ヶ浜 |
「日本の渚百選」に選定されているのは七里ヶ浜。 江ノ電車窓からの景色も人気の海岸です。 |
(10) | 鎌倉の各地に残る「やぐら」とは何か。 |
1 | 敵の襲来を見張る物見の塔 |
2 | 供養塔を建てたり骨を納めるための墳墓 |
3 | 予備の生活用具をしまっておく倉庫 |
4 | 敵の襲来時や災害時の避難場所 |
鎌倉は、三方を山で囲まれ、平地が少なかったため、横穴式の墳墓を造ったものと考えられています。 |
(11) | 後北条氏の相模最大の拠点であり、今年築城500年を迎えた城址はどこか。 |
1 住吉城址 3 玉縄城址 |
2 杉本城址 4 天神山城址 |
1512年(永正9年)、北条早雲は三浦氏攻略のため玉縄城を築きます。 |
(12) | 度重なる火災などで失われたが、奥州藤原氏が築いた平泉の中尊寺の二階大堂(大長寿院)を模して源頼朝が造営したという壮大な寺の旧跡はどこか。 |
1 勝長寿院跡 2 永福寺跡 3 東勝寺跡 4 太平(高松)寺跡 |
源頼朝の三大寺院の一つ永福寺は、1189年(文治5年)の奥州征伐のときに見た平泉の寺院を模して建立されました。 1192年(建久3年)に、中尊寺の大長寿院を模した二階堂が完成し、1193年(建久4年)には阿弥陀堂が、さらにその翌年には薬師堂が建立されています。 苑池は宇治の平等院の阿字池のようだったと考えられています。 |
中尊寺 |
大長寿院 |
毛越寺 |
無量光院跡 |
(13) | 1977年(昭和52)に建物跡などが確認され、大仏切通の北に位置し、鎌倉防衛の要衝で鎌倉時代を代表する武家屋敷跡は何か。 |
1 長者屋敷跡 2 旧御用邸門 3 北条高時邸跡 4 北条氏常盤亭跡 |
第七代執権北条政村をはじめとする北条氏(政村流)は、鎌倉の防衛の要衝である常盤に別邸を構えました。 |
北条氏常盤亭跡 |
大仏切通 |
(14) | 六地蔵は問注所で裁かれた者の刑場の跡地と伝えられるが、ここに建つ句碑にはだれの句が刻まれているか。 |
1 夏目漱石 3 小林一茶 |
2 松尾芭蕉 4 与謝蕪村 |
鎌倉十橋の一つ裁許橋は、問注所での裁判の結果、無罪となった者が渡った橋といわれ、有罪となった者は、六地蔵辺りにあった刑場に連れて行かれて処刑されたのだといいます。 六地蔵の背後には、「夏草や兵どもが夢のあと」と刻まれた句碑が建てられています。 この句は平泉を訪れた松尾芭蕉が、源義経や奥州藤原氏を思って詠んだ句。 |
(15) | 日蓮が頻繁に辻説法を行ったとされる碑のある路はどこか。 |
1 大町大路 3 小町大路 |
2 若宮大路 4 二階堂大路 |
1254年(建長6年)、鎌倉に入った日蓮は、松葉ヶ谷に草庵を結び、小町大路を中心に辻説法を行いました。 |
(16) | 梶原景時が上総介広常を討った太刀の血のりを洗い流したという伝説がある梶原太刀洗水は、どの切通の岩肌から湧き出ているか。 |
1 名越切通 3 朝夷奈切通 |
2 極楽寺切通 4 釈迦堂切通 |
梶原景時に暗殺された上総広常の屋敷は、朝夷奈切通の入口付近にあったと伝えられています。 1180年(治承4年)12月12日、源頼朝が新亭に入るときには、上総広常邸からその行列が出発しています。 |
(17) | 鶴岡八幡宮の北東の岐れ路から朝比奈峠を越えて金沢八景に至る街道を何というか。 |
1 上の道 3 下の道 |
2 中の道 4 六浦道 |
鎌倉と六浦津(むつらのつ)を結ぶ道は六浦道(六浦路)と呼ばれ、筋違橋から浄明寺・十二所を通り、朝夷奈切通を越えて六浦へと通じていました。 |
(18) | 東大寺再興のため、陸奥に赴く途中、鎌倉で源頼朝と謁見した逸話が残されている僧はだれか。 |
1 法然 3 親鸞 |
2 西行 4 一遍 |
1186年(文治2年)8月15日、源頼朝と東大寺再建勧進のため、陸奥へ赴く途中の西行が対面しました。 そのとき頼朝は、西行に弓馬と和歌について尋ねたといわれています。 |
西行と流鏑馬 |
裁許橋 |
東大寺 |
平泉 |
(19) | 今泉という地名は、ある僧侶が水に困っている村人を救おうと、村人とともに祈ると、岩肌に掘った二つ穴から水が湧き出したという言い伝えに由来している。この伝説の僧侶はだれか。 |
1 日蓮 3 空海 |
2 忍性 4 行基 |
稱名寺の陰陽の滝には、弘法大師(空海)が、仙人のお告げによって不動明王像を彫り、岩肌に2つの穴を穿ち、3日間祈祷すると水が湧き出して、2本の滝となったという伝説が残されています。 |
(20) | 鎌倉の国指定史跡は「武家の古都」として世界遺産への登録を目指しているが、世界遺産の登録を行っている国際機関は何か。 |
1 | 国連児童基金(UNICEF) |
2 | 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR) |
3 | 世界保健機関(WHO) |
4 | 国連教育科学文化機関(UNESCO) |
自然・景観の問題 |
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