|
歴史・旧跡に関する記述について、最も適当なものを1~4から選びなさい。 |
(1) | 源実朝を暗殺した,頼家の遺児公暁は出家していたが,どの社寺の別当だったか。 |
1 荏柄天神社 3 鶴岡八幡宮寺 |
2 永福寺 4 甘縄神明神社 |
公暁は、12歳のときに鶴岡八幡宮で出家、すぐに上洛して園城寺に入りました。 18歳のときに鎌倉に戻って鶴岡八幡宮の別当に就任しています。 |
鶴岡八幡宮 |
園城寺 |
(2) | 3代執権北条泰時のころの鎌倉の四境のうち,西の境はどこか。 |
1 常盤 3 稲村ヶ崎 |
2 小動岬 4 長谷 |
『吾妻鏡』によると、1224年(元仁元年)12月26日、三代執権北条泰時は、鎌倉に疫病が流行したことから、六浦、小坪、稲村、山内の四境(鎌倉の境界(外側))で四角四境祭を執行させています。 |
(3) | 落城後に,本多正信や松平正綱が入り,一時城下の村々が預かり地となったのは,どの城か。 |
1 玉縄城 3 山崎城 |
2 住吉城 4 杉本城 |
難攻不落と呼ばれた玉縄城は、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に徳川家康に包囲されて開城しました。 |
杉本城址 |
住吉城址 |
(4) | 源頼朝が雪ノ下の大御堂に勝長寿院を創建したのは何のためか。 |
1 | 元との戦いの戦死者の菩提を弔うため |
2 | 奥州藤原氏や弟の鎮魂,慰霊のため |
3 | 妻の母の供養のため |
4 | 父の供養のため |
勝長寿院は、1185年(文治元年)、父義朝の菩提を弔うために建立されました。 後白河法皇から送られた義朝と、義朝に仕えた鎌田政長(政清・政家)の首が葬られ、追善の法会が行われたそうです。 参考までに、頼朝は母由良御前の供養のために鶴岡八幡宮に五重塔を建てています。 1は北条時宗が建てた円覚寺。 2は源頼朝が建てた永福寺。 3は北条泰時が建てた常楽寺。 |
(5) | 西御門の八雲神社付近にあった太平寺を室町時代初期に中興した住持はだれか。 |
1 妙法尼 3 池禅尼 |
2 清渓尼 4 青岳尼 |
太平寺は鎌倉時代に建立された尼寺で、池禅尼の姪が開山とも言われますが、一般的には妙法尼が開いたのだと伝えられています。 参考までに、池禅尼は、平清盛の継母で、平治の乱で捕えられて処刑されそうになった源頼朝を助けたとされる人物。 青岳尼は太平寺が廃寺となる原因を作りました。 |
(6) | 鎌倉十井のうち,この井戸の向かい側にあった観音堂に安置されていた観音像の頭は東京・人形町の大観音寺に移され本尊となっている。その井戸とはどれか。 |
1 扇ノ井 3 星ノ井 |
2 泉ノ井 4 鉄ノ井 |
多くの観光客で賑わう小町通りのはずれにある伝説の鉄ノ井(くろがねのい)。 井戸を彫ったときに鉄の観音像の頭が出てきたことから名づけられました。 |
鉄ノ井 |
鉄観音 (大観音寺) |
(7) | 鎌倉五名水のうち,1709年(宝永6)の「建長寺境内絵図」に描かれているのはどれか。 |
1 金龍水 3 日蓮乞水 |
2 不老水 4 梶原太刀洗水 |
問のうち、建長寺にあったのは、金龍水と不老水。 ただ、不老水については、建長寺のどこにあったのかは不明。 日蓮乞水は名越切通の入口、梶原太刀洗水は朝夷奈切通の入口にあります。 |
(8) | 次の有力な鎌倉御家人のうち,滅ぼされた年代を古い順に並べるとき,正しいものはどれか。 |
1 梶原氏→比企氏→和田氏→三浦氏 2 比企氏→梶原氏→三浦氏→和田氏 3 梶原氏→比企氏→三浦氏→和田氏 4 比企氏→梶原氏→和田氏→三浦氏 |
源頼朝亡き後、北条氏は有力御家人を次々に滅ぼしました。 梶原氏は1200年(正治2年)、比企氏は1203年(建仁3年)、和田氏は1213年(建暦3年)、三浦氏は1247年(宝治元年)に滅ぼされています。 |
梶原景時の変 比企氏の乱 和田合戦 宝治合戦 |
(9) | 奈良時代の鎌倉について,次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 |
1 | 「鎌倉」の地名が記された最も古い文献は,『古事記』で,日本武尊を「鎌倉之別の祖…」 と記している。 |
2 | 日本最古の歌集『万葉集』所収「東歌」にも,「鎌倉の見越の崎の…」「薪樵る鎌倉山の…」 などと「鎌倉」が詠まれている。 |
3 | 御成小学校敷地内の今小路西遺跡から「天平五年」(733 年)と記された木簡が発見され たことによって鎌倉の郡役所の所在が確認された。 |
4 | 藤原鎌足が由井里に泊まった夜に不思議な夢を見たので,護身用に持参した鎌槍を大倉の松ヶ岡に埋めた故事により,その鎌の名をとって「かまくら」になったともいわれる。 |
『古事記』には、日本武尊の子、足鏡別王を「鎌倉之別の祖…」 と記されているようです。 |
(10) | 源頼朝の治績について,次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 |
1 | 『吾妻鏡』によれば,1180 年(治承 4),鎌倉に入った源頼朝は,12月に新築の大倉御所に移り,関東の武士たちから「鎌倉の主」と仰がれるようになった。 |
2 | 源頼朝は,由比若宮を大倉郷に移し,鶴岡八幡宮として,町の中心に据えて若宮大路を整備した。 |
3 | 御家人を統率する侍所,政務を担当する公文所,訴訟を担当する問注所が設置され,大倉御所の周辺には御家人の居館が配置された。 |
4 | 源頼朝は,藤原泰衡や源義経をはじめとする,内乱の戦死者を鎮魂するために永福寺を建立した。 |
2の由比若宮は小林郷に移されました。 大倉郷には御所が建てられ、のちに大倉幕府と呼ばれています。 |
(11) | 地名の由来について,次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 |
1 | 佐助は,佐介氏の祖である北条時盛が邸を構えたことが由来の一つとされる。 |
2 | 坂ノ下は,鎌倉七口の1つである大仏切通の下にある地域であることが由来とされる。 |
3 | 大船は昔,粟船といい,粟を積んだ船が山のように連なって見えたことが由来とされる。 |
4 | 下馬は,鎌倉時代,鶴岡八幡宮に参拝するときに,貴人が神仏に敬意をはらってこの地 で馬を下りることになっていたことが由来とされる。 |
2のは坂ノ下は大仏切通の下ではなく極楽寺切通の下。 参考までに、佐助稲荷神社の「佐助」という名には、「佐殿(すけどの)を助けた」という意味があるという説も。 佐殿とは源頼朝のこと。 |
歴史・旧跡について関連のあることがらの組み合わせとして誤っているものを1~4から選びなさい。 |
(12) | 橋と関連人物 |
1 | 針磨橋-我入道 |
2 | 裁許橋-西行 |
3 | 歌ノ橋-渋川刑部六郎兼守 |
4 | 乱橋-足利直義 |
乱橋は新田義貞が鎌倉に攻め入ったときに、北条軍が乱れ始めた場所と伝えられています。 |
(13) | 人物と墓所の所在地 |
1 | 梶原景時-巨福呂坂 |
2 | 大江広元-源頼朝墓の東側の山の中腹 |
3 | 上杉憲方-明月院やぐら |
4 | 木曽義高-常楽寺裏山 |
深沢小学校裏のやぐら内にある四基の五輪塔は、梶原景時と一族の墓と伝えられています。 |
梶原景時一族の墓 大江広元の墓(法華堂跡) 伝大江広元墓(明王院裏山) 明月院やぐら 伝上杉憲方墓(西方寺址) 木曽塚 |
歴史・旧跡について,次の文の〔 ① 〕,〔 ② 〕にあてはまるものの組み合わせとして 最も適当なものを 1 ~ 4 から選びなさい。 |
(14) | 室町時代,初代に足利尊氏の子,〔 ① 〕が就き,東国十カ国を統治した鎌倉府の長官を鎌倉公方といい,その補佐役を関東管領と呼び,初代に〔 ② 〕が就いた。 |
1 | ① 足利義詮 ② 上杉憲実 |
2 | ① 足利義詮 ② 上杉憲顕 |
3 | ① 足利基氏 ② 上杉憲実 |
4 | ① 足利基氏 ② 上杉憲顕 |
鎌倉幕府滅亡後の鎌倉は足利義詮(尊氏の嫡子、のちの室町幕府二代将軍)が治めていましたが、1349年(貞和5年・正平4年)、義詮に代わって基氏(尊氏の三男)が鎌倉公方として鎌倉に入ります。 初代の関東管領は上杉憲顕は任命され、以後、上杉氏が世襲しました。 |
(15) | 江戸時代,鎌倉・江の島は行楽地として注目されるようになる。鎌倉を訪れたことが ある 2 代水戸藩主〔 ① 〕が編纂させた『〔 ② 〕』は,観光案内に利用された。 |
1 | ① 徳川光圀 ② 新編鎌倉志 |
2 | ① 徳川光圀 ② 東関紀行 |
3 | ① 徳川頼房 ② 新編鎌倉志 |
4 | ① 徳川頼房 ② 東関紀行 |
『東関紀行』は、鎌倉時代に成立した紀行文。 |
(16) | 鎌倉十井の一つで,材木座と小坪の境界付近にある〔 ① 〕については,弓の名手として有名な〔 ② 〕が保元の乱に敗れて流された伊豆の大島から射た矢が,この井戸まで届いたという故事がある。 |
1 | ① 六角ノ井 ② 源為朝 |
2 | ① 六角ノ井 ② 源為義 |
3 | ① 銚子ノ井 ② 源為朝 |
4 | ① 銚子ノ井 ② 源為義 |
保元の乱で伊豆大島に流されたのは源為朝。 源為義は為朝の父。 六角ノ井の中段には、鏃が祀られているそうです。 |
歴史・旧跡について,次の説明文の〔 〕に最も適当なものを 1 ~ 4 から選びなさい。 |
〔 (17) 〕の乱の平定に際して,〔 (18) 〕は,相模の豪族,平直方に,その武功を認められて,娘婿に迎えられ,鎌倉の屋敷を与えられたのが,清和源氏と鎌倉の縁の始まりであった。 〔 (18) 〕は出征の際〔 (19) 〕の戦勝を〔 (20) 〕に祈願して叶えられたことを感謝,由比郷に〔 (20) 〕を源氏の守り神として勧請し,由比若宮(現在の元八幡)を建立した。 |
(17) | |
1 平将門 3 平忠常 |
2 橘奈良麻呂 4 藤原純友 |
(18) | |
1 源頼光 3 源義光 |
2 源頼義 4 源義家 |
(19) | |
1 前九年合戦 3 後三年合戦 |
2 保元の乱 4 平治の乱 |
(20) |
1 太宰府天満宮 2 宇佐八幡宮 3 北野天満宮 4 石清水八幡宮 |
父頼信とともに平忠常の乱を鎮圧した源頼義。 平直方は、頼義の武勇に感心して、娘婿に迎え、鎌倉の領地を譲ります。 これにより、鎌倉と河内源氏の縁が始まりました。 平直方は、のちに源頼朝の挙兵に協力する北条時政の先祖なのだとか・・・ |
(17) 3 (18) 2 (19) 1 (20) 4 |
由比若宮 |
石清水八幡宮 |
自然・景観の問題 |
★鎌倉検定の受検お申し込みは 鎌倉商工会議所ホームページへ |
|