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西方寺址(極楽寺切通沿い)に並ぶ石塔群のうち、七層塔が三代鎌倉公方の足利氏満の下で関東管領を務めた上杉憲方の墓で、隣の五層塔は憲方の妻のものと伝えられている。 極楽寺切通を挟んで反対側の崖には、妻が建てたとされる憲方の逆修塔が残されている(逆修塔とは、生前に建てる供養塔。)。 |
西方寺は、源頼朝の時代に笹目に建てられた寺とされ、後に、この地に移転し、極楽寺の一院となったものと考えられている(極楽寺伽藍図にも描かれている。)。 神奈川県の資料によると、「伝上杉憲方逆修塔」は永和5年(1379年)銘の宝篋印塔で、高さは139.2p程度。 西方寺址の崖裾平場に建てられているが、現在は私有地のため立ち入ることができない。 鎌倉市重要文化財。 |
神奈川県の資料によると、西方寺址の五輪塔は14世紀後半のもので、安山岩製の五輪塔。 関東大震災時に塔内と塔下から銅製舎利容器3個が出土。 うち一つには「極楽寺第七長老、明賢大徳遺骨、貞治7年(1368年)季戌申3月15日」と記されていたという。 「伝上杉憲方逆修塔」と同じく西方寺址の崖裾平場に建てられている。 鎌倉市重要文化財。 |
西方寺は、明応年間(1492−1501)に上杉家の所領だった武蔵国の新羽に移転したのだという。 |
上杉憲方は、関東管領上杉憲顕の子で、憲顕、憲方と続く家系が山内上杉家となった。 鎌倉公方の足利氏満に仕え、1379年(康暦元年)、関東管領に任じられている。 憲方は山ノ内の禅興寺を中興(現在は支院の明月院のみが残る。)。 「明月院やぐら」にも上杉憲方墓とされる宝篋印塔が安置されている。 |
極楽寺は真言律宗の寺院。 開山の忍性は社会事業に力を注ぎ「医王如来」と崇められた高僧。 |
鎌倉市極楽寺3−6−7 0467(22)3402 江ノ電「極楽寺駅」からすぐ |
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