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歴史・旧跡に関する記述について、最も適当なものを1〜4から選びなさい。 |
鎌倉では世界遺産登録を目指してさまざまな取り組みが行われているが、現存しない旧跡として世界遺産登録候補地に含まれているのは、永福寺跡・法華堂跡・東勝寺跡・仏法寺跡とどこか。 |
1 大倉幕府跡 2 北条高時邸跡 3 北条氏常盤亭跡 4 足利公方跡 |
7代執権北条政村らの北条一族が別邸を構えた大仏切通の北側は、幕府防衛の要衝でした。 この別邸の跡地は、国の指定史跡に指定され、世界遺産登録候補地にも選ばれています。 |
公家の出身で、源頼朝・頼家・実朝3代に仕え、政所(はじめ公文所)の初代別当としてその政治を補佐した人物はだれか。 |
1 三善康信 3 平賀朝雅 |
2 大江広元 4 九条兼実 |
三善康信は「問注所」の執事。出家後は善信と名乗っています。 康信の母は源頼朝の乳母の妹であったので、頼朝が伊豆蛭ヶ小島に流されていたときも都の情勢を定期的に伝えていました。 平賀朝雅は新羅三郎義光の血を引く源氏で、畠山重忠の乱のきっかけを作った人物です。 牧の方の陰謀が発覚後、京都で殺害されています。 九条兼実は藤原五摂家の九条家の祖。 頼朝の信頼を得て摂政関白にまで上り詰め、頼朝の征夷大将軍任官にも努力しました。 大江広元は公文所、政所の別当となり、頼朝の右腕として活躍します。 源義経は頼朝の許しを得るために広元に書状を送っています(腰越状)。 |
伝大江広元墓 |
大江広元墓 (法華堂跡) |
「鎌倉五名水」について、記載された資料はどれか。 |
1 『新編鎌倉志』 2 『新編相模国風土記稿』 3 『倭名類聚抄』 4 『吾妻鏡』 |
鎌倉の水(鎌倉五名水、鎌倉十井)については、徳川光圀が編纂させた『新編鎌倉志』の記載が、のちのちの名数となったといわれています。 『新編相模国風土記稿』は、相模国に所属する郡・村の沿革・地誌が記載されています。 『倭名類聚抄』は平安時代の辞書で、昨年の試験にも出題されました。 『吾妻鏡』は鎌倉幕府の歴史書です。 |
鎌倉公方足利持氏にそむき乱を起こした、前関東管領上杉禅秀はどの上杉家か。 |
1 犬懸 3 扇谷 |
2 宅間 4 山内 |
犬懸ヶ谷と宅間谷を結ぶ田楽辻子に上杉禅秀の邸跡碑が建てられています。 宅間家は南北朝時代に没落したと考えられ、犬懸家は上杉禅秀の乱によって没落しました。 扇谷家は河越夜戦で滅亡し、山内家は北条氏康に敗れ、長尾景虎(上杉謙信)に家督を譲っています。 |
鎌倉市の市章はゆかりの深い源氏の家紋に影響を受けているとされているが、源氏の家紋はどれか。 |
1 |
2 |
3 |
4 |
1は五三桐。皇室に関係する紋で豊臣秀吉などが賜っています。 2は十六菊。これも皇室に関係する紋ですが、現在では、パスポートに使用されています。 3は徳川葵。「三葉葵」として知られています。 4は笹竜胆(ササリンドウ)。 鎌倉市の市章は笹竜胆から考えられました。 ただし、笹竜胆が源氏の家紋ということには少々疑問が残ります。 |
鎌倉で見かける家紋 鎌倉市の花リンドウ |
戦国時代に庵主の青岳尼を上総の大名里見義弘が妻として連れ去ったために廃寺となった寺はどれか。 |
1 勝長寿院 3 太平寺 |
2 東慶寺 4 長楽寺 |
勝長寿院は、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建てた寺です。東慶寺は廃寺になっていません。 長楽寺は、北条政子が頼朝の菩提を弔うために建てました。 鎌倉尼五山第1位だった太平寺は、住職の青岳尼が寺を捨てたため、北条氏康によって廃寺とされています。 |
足利義兼が住まいを定めて以来二百数十年、足利家の子孫は代々この地に住み、室町時代には鎌倉公方の邸宅もこの地にあった。現在は「足利公方邸蹟」の碑が残されているのはどこか。 |
1 十二所 3 浄明寺 |
2 雪ノ下 4 二階堂 |
浄妙寺は、足利義兼が建立した寺です。 鎌倉公方の屋敷跡碑は、浄妙寺から明王院へと向かう金沢街道沿いに建てられています。 滑川に架かる虹の橋付近です。 寺名の「浄妙寺」と地名の「浄明寺」では、「みょう」の字が異なります。 |
地名などの由来について、次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 |
1 | 大船は昔、粟船といい、粟を積んだ船がたくさん行き来していたことによるという。 |
2 | 裁許橋は、この近くに問注所があったからといい、別名を西行橋というのは、源頼朝がここで西行と出会ったからという。 |
3 | 今泉は、日蓮が掘った二つの滝(称名寺の男滝、女滝)に由来するという。 |
4 | 源氏山は、源義家がその山上に源氏をあらわす白旗を立てたことにちなむという。 |
今泉の稱名寺の男滝と女滝の伝説は、日蓮ではなく空海(弘法大師)です。 |
常楽寺 裁許橋 男滝と女滝 源氏山 |
源実朝について、次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 |
1 | 西行に自分が詠んだ和歌を見せ評判を求め、その指導を受けて、『金槐和歌集』にまとめた。 |
2 | 謀反の罪で捕らえられた渋川兼守が詠んだ和歌10首のすばらしさに感心して、その罪を許した。 |
3 | 中国から渡来した工人陳和卿のすすめで、中国に渡ろうとして大船を建造したが、浅瀬で座礁し、進水できなかった。 |
4 | 鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀式の後、待ち伏せていた源頼家の遺児公暁によって暗殺された。 |
源実朝は、藤原定家に私淑し、『金槐和歌集』をまとめています。 西行は、1186年(文治2年)に鎌倉を訪れて、源頼朝に弓馬について語っていますが、その時、実朝は誕生していません。 |
金槐和歌集 歌の橋 陳和卿 源実朝の暗殺 |
「いざ鎌倉」に代表されるように、「鎌倉へ向かう」道として整備された鎌倉往還について、次の説明で内容に誤りを含むものはどれか。 |
1 | 『吾妻鏡』には「鎌倉往還」とあり、「鎌倉街道」と称されるようになったのは江戸時代の頃からといわれている。 |
2 | 『新編相模国風土記稿』には、鎌倉郡には小往還が7つあり、そのうち5つを鎌倉道と呼び、鶴岡八幡宮へ参詣する道であったと記されている。 |
3 | 北条泰時は、鎌倉と京都の間に、新しい駅制「駅路の法」を制定したという。 |
4 | 南北朝時代の『太平記』、『梅松論』にある「上の道」、「中の道」、「下の道」の3つが、後世、「鎌倉街道」と呼ばれる主要路となった。 |
駅路の法を制定したのは源頼朝です。 |
歴史・旧跡について関連のあることがらの組み合わせとして誤っているものを1〜4から選びなさい。 |
1 永享の乱・足利持氏 2 中先代の乱・護良親王 3 承久の乱・後鳥羽上皇 4 後三年の役・源義朝 |
後三年の役は、源義朝ではなく源義家です。 |
歴史・旧跡について、次の説明文の[ ]に最も適当なものを1〜4から選びなさい。 |
鎌倉時代の鎌倉の歴史は戦乱の歴史といえる。源頼朝が53歳で亡くなると、北条氏と有力御家人の間で争いが起こる。1200年(正治2)、[ @ ]が結城朝光を讒言して逆に弾劾にあい失脚し、駿河で討たれた。源頼家が2代将軍となると、北条時政が頼家の舅である[ A ]の影響力が増すことを恐れて[ A ]を暗殺、一族を滅ぼした。次いで、時政は[ B ]とその一族を滅ぼし、自身の縁者を将軍にしようとしたため、北条義時・政子などの反感を買い失脚した。執権となった義時は、下馬から由比ヶ浜辺りの激戦で侍所別当の[ C ]を破り一族を滅亡させた。 さらに、5代執権[ D ]は宝治合戦で三浦泰村と一族を滅ぼし、北条執権政治を盤石にした。敗れた三浦泰村と一族は源頼朝の墓である[ E ]跡あたりで自害した。9代執権北条貞時のときには、[ F ]騒動で内管領平頼綱が有力御家人[ G ]を破った。 |
@ | |
1 染屋時忠 3 三浦義明 |
2 梶原景時 4 上総介広常 |
梶原景時は、結城朝光の「忠臣は二君に仕えず」という言葉を「頼家への誹謗である」と讒言したことによって、御家人66名の弾劾にあって失脚しました(梶原景時の変)。 |
A | |
1 梶原景季 3 千葉常胤 |
2 相馬師常 4 比企能員 |
2代将軍源頼家は、比企氏を乳母とし、比企能員の娘を側室としていました。比企能員は北条時政の屋敷に誘き出されて暗殺されます(比企の乱)。 |
B | |
1 比企能本 3 和田義秀 |
2 畠山重忠 4 三浦義村 |
北条時政は、畠山重忠が謀反を企てているとして、重忠を攻めて殺害します(畠山重忠の乱)。そして、平賀朝雅を将軍に据えようして失脚しました(牧の方の陰謀)。 |
C | |
1 和田義盛 3 畠山重保 |
2 佐々木盛綱 4 比企高家 |
北条義時は、和田義盛の子らの起こした謀反の計画を機に、義盛を挑発し、合戦を起こさせました(和田合戦)。 |
D | |
1 北条経時 3 北条長時 |
2 北条時頼 4 北条政村 |
E | |
1 法華堂 3 勝長寿院 |
2 永福寺 4 東勝寺 |
北条時頼は、三浦泰村を攻め(宝治合戦)、一族を滅亡させます。泰村は法華堂で自刃しました。 |
F | |
1 霜月 3 神無月 |
2 水無月 4 長月 |
G | |
1 安達泰盛 3 安達盛長 |
2 足立遠元 4 安達景盛 |
安達泰盛は、北条時宗の死後、将軍を中心とした体制を築こうとしますが、北条得宗家の執事平頼綱によって滅ぼされました(霜月騒動)。 |
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