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歴史・旧跡に関する記述について、最も適当なものを1〜4から選びなさい。 |
(1) | 「鎌倉」の地名が記された最も古い文献とされているのは何か。 |
1 『日本書紀』 3 『倭名類聚抄』 |
2 『古事記』 4 『万葉集』 |
『日本書紀』は720年(養老4年)完成の歴史書、『古事記』は712年(和銅5年)に献上された歴史書、『倭名類聚抄』は931〜938年の承平年間に編集された辞書、 『万葉集』は7世紀から8世紀にかけて編纂された和歌集。 いずれにも鎌倉の地名が記されています。 |
(2) | 源頼朝の死後、2代将軍の外戚となり、権力を振るったが、北条氏討伐の企てが北条政子に知られ、名越の北条邸で謀殺された人物はだれか。 |
1 畠山重忠 3 上総介広常 |
2 三浦義明 4 比企能員 |
比企能員は、源頼朝が伊豆に配流の身であった頃に世話をした比企尼の養子。 能員の妻は二代将軍源頼家の乳母となり、娘の若狭局は側室となって嫡子一幡を産みました。 しかし、1203年(建仁3年)、北条時政の名越亭で暗殺されています。 |
(3) | 右大臣拝賀の儀の帰途、鶴岡八幡宮境内で甥の公暁に暗殺された人物はだれか。 |
1 源義朝 3 源頼家 |
2 源範頼 4 源実朝 |
1219年(建保7年)、三代将軍源実朝は、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀式の後、甥の公暁によって暗殺されました。 |
実朝公御首塚 (秦野市) |
実朝の五輪塔 (壽福寺) |
(4) | 室町時代、関東8カ国に甲斐、伊豆を合わせた東国10カ国を統治した鎌倉公方に最初に就いたのはだれか。 |
1 足利基氏 3 足利氏満 |
2 足利義詮 4 足利成氏 |
1349年(正平4年/貞和5年)、それまで鎌倉にいた足利尊氏の嫡子義詮に代わって弟の基氏が鎌倉に下向し、初代の鎌倉公方となりました。義詮は二代将軍となっています。 氏満は二代、成氏は五代の鎌倉公方。 |
鎌倉公方 |
関東管領 |
(5) | 戦国大名長尾景虎が上杉憲政から山内上杉家の名跡を譲られた場所はどこか。 |
1 鶴岡八幡宮 3 円覚寺 |
2 建長寺 4 由比ヶ浜 |
1561年(永禄4年)、関東管領上杉憲政(山内上杉家)は、その家督と関東管領職を長尾景虎に譲り、鶴岡八幡宮で拝賀式が行われました。 |
(6) | 江戸時代末期、鎌倉でイギリス人が浪人に殺傷される事件がおこった場所はどこか。 |
1 三の鳥居付近 2 二の鳥居付近 3 一の鳥居付近 4 下馬付近 |
1864年(元治元年)11月20日、下馬で江ノ島・鎌倉見物にきていた英国人軍人ボールドウィン少佐とバード中尉の二人が殺傷されるという事件が起きました(鎌倉事件)。 |
(7) | 1880年(明治13)に、鎌倉は保養地として最適な地であると紹介した人物はだれか。 |
1 北里柴三郎 2 長与専斎 3 ロベルト・コッホ 4 エルウィン・ベルツ |
ドイツ人医学者のベルツは、結核療養の最適地として紹介しました。ベルツは健康増進のために海水浴を薦めていたといいます。 その後、医学者長与専斎によって「海水浴に最適の地」と称され、由比ヶ浜には結核療養所が創設されています。 |
(8) | 1936年(昭和11)に、鎌倉在住の作家によって結成された鎌倉ペンクラブの初代会長はだれか。 |
1 川端康成 3 里見ク |
2 久米正雄 4 大佛次郎 |
久米正雄は、1934年(昭和9年)から始まった「鎌倉カーニバル」の開催に尽力し、1936年(昭和11年)には、「鎌倉ペンクラブ」を結成して初代会長を務めました。 |
(9) | 鎌倉時代には「前浜」と呼ばれ、小笠懸や流鏑馬、犬追物などの武芸の修練場とされていたのはどこか。 |
1 七里ヶ浜 3 片瀬東浜 |
2 由比ヶ浜 4 稲村ヶ崎 |
かつて由比ヶ浜は、鶴岡八幡宮の前の浜という意味から「前浜」と呼ばれていました。 |
(10) | 現在、鎌倉市内で知られている「やぐら」の数は何基を超すといわれているか。 |
1 5000 3 500 |
2 1000 4 100 |
(11) | 最後の得宗北条高時の屍が葬られたと伝えられている「腹切りやぐら」があるのはどこか。 |
1 太平寺跡 3 東勝寺跡 |
2 永福寺跡 4 勝長寿院跡 |
1333年(元弘3年)の新田義貞の鎌倉攻めによって、北条高時は東勝寺で自刃しました。 |
(12) | 「大倉幕府旧蹟」の石碑が建っているのはどこか。 |
1 | 御成小学校前 |
2 | 若宮大路の一の鳥居付近 |
3 | 清泉小学校校地の傍ら |
4 | 鶴岡八幡宮の流鏑馬道の東側の入口 |
御成小学校前にあるのは、問注所跡碑。 若宮大路の一の鳥居付近にあるのは、畠山重保邸跡碑。 鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の東側の入口にあるのは、畠山重忠邸跡碑。 大倉幕府は、現在の清泉小学校の地にありました。 |
(13) | 源頼朝が、父の供養のために雪ノ下の大御堂に創建したと伝えられる寺の旧跡はどこか。 |
1 勝長寿院跡 3 東勝寺跡 |
2 永福寺跡 4 高松寺跡 |
1185年(文治元年)、源頼朝は父義朝の菩提を弔うために勝長寿院を創建し、後白河法皇から送られてきたた義朝と鎌田政長(政清・政家)の首を葬りました。 |
(14) | 『吾妻鏡』に「前奥州禅門葬送す。故右大将家(源頼朝)法華堂の東の山上をもって墳墓とす」とあることから、法華堂東隣の山の中腹に墓所があるとされる「前奥州禅門」とはだれのことか。 |
1 北条時政 3 北条政子 |
2 北条義時 4 大江広元 |
2005年(平成17年)、源頼朝墓東隣の山の中腹から北条義時のものと考えられる法華堂跡が発掘されています。 |
(15) | 源為朝の伝説が残る、材木座から小坪に抜ける海際の道にある鎌倉十井の1つは何か。 |
1 甘露ノ井 3 棟立ノ井 |
2 底脱ノ井 4 六角ノ井 |
保元の乱に敗れた源為朝は、流された伊豆大島から鎌倉の天照山めがけて矢を放ち、その矢が落ちたのが六角ノ井だったと伝えられています。 |
(16) | 佐助の銭洗水で金銭を洗うと特に福利が増すといわれているのは何の日か。 |
1 辰の日 3 寅の日 |
2 酉の日 4 巳の日 |
銭洗弁財天宇賀福神社は、源頼朝が宇賀福神を祀ったのを始まりとしているといいます。 宇賀福神は仏教の神である弁財天と習合された神で、体がヘビで頭が人の形をしています。 |
(17) | 大御堂橋の下を流れる滑川が古くは坐禅川といわれたのは、だれが近くに屋敷を構えていたことにちなんでか。 |
1 西行 3 文覚 |
2 日蓮 4 空海 |
(18) | 現在、今小路は壽福寺門前付近からどこまでをいうか。 |
1 六地蔵 3 由比ヶ浜 |
2 鶴岡八幡宮 4 御成小学校 |
今小路は、壽福寺の門前を若宮大路と平行して南下する路です。 『新編鎌倉志』には、鎌倉十橋の勝ノ橋から巽荒神社までの路と書かれていますが、 現在では六地蔵に至るまでの道を「今小路」と呼んでいるようです。 |
今小路 |
六地蔵 |
(19) | 鎌倉という地名伝承の一つで、由井里(今の由比ヶ浜)に泊まった夜に不思議な夢を見たので、護身用に持参していた鎌(鎌槍)を大倉の松ヶ岡に埋めた、という人物はだれか。 |
1 天智天皇 3 藤原鎌足 |
2 坂上田村麻呂 4 日本武尊 |
大職冠という官位を授かった藤原鎌足は、鹿島神宮へ参詣する途中で由比の里(現鎌倉)に宿泊。 すると、夢に現れた老人から「鎌槍をこの地に埋めれば天下はよく治まる」というお告げを受け、白狐に導かれるまま所持していた鎌槍を松ヶ岡に埋めたのだといいます。 松ヶ岡がどこなのか不明ですが、浄妙寺の鎌足稲荷社、鶴岡八幡宮の大臣山にその伝説が残されています。 |
鎌足稲荷社 (浄妙寺) |
大臣山 (鶴岡八幡宮) |
(20) | 坂ノ下の地名の由来は、ある切通の下に位置する地域であるからとされるが、ある切通とはどこのことか。 |
1 名越切通 3 大仏切通 |
2 極楽寺切通 4 釈迦堂切通 |
坂ノ下は極楽寺切通を下った所。 |
自然・景観の問題 |
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