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歴史・旧跡について,次の各問いに答えなさい。 |
(1) | 源氏ゆかりの地である鎌倉を根拠地とするように源頼朝に進言したと『吾妻鏡』に書かれ ている人物はだれか。 |
1 北条時政 3 上総介広常 |
2 三浦義明 4 千葉常胤 |
1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をした源頼朝は、石橋山の戦いに敗れ、安房国へ渡ります。 参陣を命じられた千葉常胤は、「今の居所は、守りやすい土地ではないし、先祖の由縁の地でもない。速やかに相模国の鎌倉へ向かわれるべき」と進言したのだといいます。 鎌倉入りを進言した千葉常胤 |
(2) | 次のうち,源実朝が征夷大将軍の時に滅ぼされた御家人の組み合わせはどれか。 |
1 比企能員・畠山重忠 2 和田義盛・畠山重忠 3 比企能員・梶原景時 4 和田義盛・梶原景時 |
梶原景時は、源頼朝が亡くなったちょうど1年後の1200年(正治2年)正月20日、上洛途上の駿河国清見関で滅亡(梶原景時の変)。 比企能員は、1203年(建仁3年)9月2日、北条時政に暗殺されています(比企氏の乱)。 このとき、比企一族も滅ぼされ、9月5日には二代将軍源頼家が出家、9月15日には源実朝が三代将軍に。 9月29日、頼家は修禅寺に幽閉され、翌年7月18日に暗殺されています。 畠山重忠は、1205年(元久2年)6月22日、北条時政の謀略によって武蔵国二俣川で最期を遂げています(畠山重忠の乱)。 和田義盛は、1213年(建暦3年)5月3日、北条義時に対して反乱を起こし由比ヶ浜で滅びました(和田合戦)。 |
(3) | 源実朝を暗殺した,頼家の遺児公暁は出家していたが,どの社寺の別当だったか。 |
1 勝長寿院 2 鶴岡八幡宮寺 3 永福寺 4 甘縄神明神社 |
1211年(建暦元年)9月15日、鶴岡八幡宮別当の定暁(尊暁)の弟子となった源頼家の遺児善哉。 出家後は公暁と名乗り、翌日には、修行のため園城寺に入っています。 1217年(建保5年)6月20日、鎌倉に戻った公暁は鶴岡八幡宮の別当に就任しました。 10月11日からは、上宮で一千日間の参籠をはじめ、そのまま1219年(建保7年)の正月を迎えます。 そして正月27日、鶴岡八幡宮で源実朝を暗殺しました。 |
(4) | 仏殿が円覚寺舎利殿として移築されたことでも知られる太平寺はどこにあったか。 |
1 二階堂 3 雪ノ下 |
2 西御門 4 小町 |
太平寺は鎌倉尼五山第一位だった寺。 安房の里見義弘が鎌倉に攻め入った際に、住職の青岳尼(義弘の最初の正室)が安房に渡ったため廃寺となりました。 西御門の来迎寺裏のテニスコートが太平寺の跡といわれています。 |
太平寺跡 |
舎利殿 |
円覚寺の舎利殿は、太平寺の仏殿だった建物。 本尊だった聖観音像は、東慶寺の松岡宝蔵に置かれています。 |
(5) | 鎌倉十井の一つ「底脱ノ井」の由来を語る伝説で,この井戸の水を汲んで桶の底が抜けたので,「千代能がいただく桶の底抜けて水たまらねば月もやどらじ(ず)」という和歌を詠んだ女性は,だれの娘だといわれているか。 |
1 上杉憲方 3 安達景盛 |
2 上杉定正 4 安達泰盛 |
千代能は、安達泰盛の娘。 金沢顕時に嫁ぎ、顕時の死後は、仏光国師(無学祖元)に参禅し、無着如大と号したのだとか。 |
(6) | 現在の北条氏常盤亭跡に別邸を構えたことから,常盤殿と呼ばれた人物はだれか。 |
1 北条政村 3 北条長時 |
2 北条経時 4 北条重時 |
北条氏常盤亭は、七代執権北条政村をはじめとする北条氏政村流の別邸。 |
(7) | 鎌倉十橋のうち,別名,我入道橋ともいわれる,極楽寺川に架かる橋を何というか。 |
1 針磨橋 3 琵琶橋 |
2 夷堂橋 4 歌ノ橋 |
極楽寺塔頭に住んでいた我入道という僧侶が針を磨いていたからという説もある針磨橋。 |
(8) | 地名の由来について,次の説明文で内容に誤りがあるのはどれか。 |
1 | 二階堂は,奥州合戦に勝利した源頼朝が,平泉・中尊寺の二階大堂(大長寿院)を模して 建立した永福寺の本堂を二階堂といったことに由来するという。 |
2 | 腰越は,北の山に住んでいた人が南の海際の肥えた土地を求めて,山の腰を越えるように移り住んできたことに由来するという。 |
3 | 今泉は,行基が掘った二つの滝(稱名寺の男滝,女滝)に由来するという。 |
4 | 玉縄は,この地の辺りからきれいな飾り玉が出土したことにことに由来するという。 |
稱名寺の男滝と女滝は、諸国を遍歴していた空海(弘法大師)が掘ったもの。 金仙山(こんせんざん)という山がありましたが、水が湧き出たことで金仙を今泉(こんせん)と書くようになり、さらに「いまいずみ」と読むようになったとのだとか。 |
歴史・旧跡について関連あることがらの組み合わせとして誤っているものを 1 ~ 4 から選びなさい。 |
(9) | 戦役と関係人物 |
1 | 永享の乱-足利持氏 |
2 | 承久の乱-崇徳上皇 |
3 | 中先代の乱-北条時行 |
4 | 宝治合戦-北条時頼 |
1の永享の乱は、鎌倉公方の足利持氏が、室町幕府六代将軍・足利義教と関東管領・上杉憲実と対立して起こった戦い。 2の承久の乱は、後鳥羽上皇が皇権回復するため、鎌倉幕府執権の北条義時に対して挙兵し、鎮圧された兵乱。 3の中先代の乱は、鎌倉幕府滅亡後、諏訪頼重に担がれた北条高時の遺児・時行が起こした反乱。 4の宝治合戦は、北条時頼が三浦泰村を滅ぼした戦い。 |
(10) | 鎌倉七口とそれに関連する事柄 |
1 | 朝夷奈切通-梶原大刀洗水 |
2 | 仮粧坂-圓應寺 |
3 | 極楽寺切通-星ノ井 |
4 | 亀ヶ谷坂-岩船地蔵堂 |
2の圓應寺と関連するは巨福呂坂。 巨福呂坂は、鶴岡八幡宮の西側から山の尾根を越え、圓應寺を経て建長寺へと出る道でした。 |
歴史・旧跡について,次の文の〔 ① 〕,〔 ② 〕にあてはまるものの組み合わせとして最も適当なものを 1 ~ 4 から選びなさい。 |
(11) | 鶴岡八幡宮の裏山である御谷が開発されようとしたとき,『鞍馬天狗』などの作品で知られる作家〔 ① 〕らも加わって市民による開発反対,旧跡,緑地の保全運動が起こり,この運動をきっかけにして,〔 ② 〕が発足し,古都保存法が制定された。 |
1 |
① 大佛次郎 ② 鎌倉同人会 |
2 |
① 大佛次郎 ② 鎌倉風致保存会 |
3 |
① 永井龍男 ② 鎌倉同人会 |
4 |
① 永井龍男 ② 鎌倉風致保存会 |
1964年(昭和39年)、二十五坊跡(御谷)の開発に、作家大佛次郎も加わった緑地保全の運動が起こります(御谷騒動)。 財団法人鎌倉風致保存会が設立され、土地を買収して、緑地の保全に成功しました(日本初のナショナルトラスト運動)。 |
大佛次郎茶亭 |
鎌倉風致保存会 |
(12) | 清和源氏と鎌倉との結びつきは,〔 ① 〕の乱の平定に父と共に功績のあった 〔 ② 〕の武勲を平直方が認め,女婿に迎え,自らが有する鎌倉の領地を譲ったことに始まったとされる。 |
1 |
① 平将門 ② 源義朝 |
2 |
① 平将門 ② 源頼義 |
3 |
① 平忠常 ② 源頼義 |
4 |
① 平忠常 ② 源義朝 |
清和源氏は、六孫王と呼ばれた源経基を祖とする清和天皇から分かれた氏族(参考:六孫王神社)。 鎌倉との繋がりを深くしたのは、その支流の河内源氏です。 河内源氏が坂東進出に成功した要因の一つに、1028年(長元元年)に起こった「平忠常の乱」があげられます。 当初、追討使には平直方が起用されますが、反乱をに鎮圧することができなかったため、1030年(長元3年)、河内源氏の源頼信が起用されました。 乱後、頼信の子頼義の武勇に感じ入った直方が、娘を頼義に嫁がせ、鎌倉の大蔵邸を寄進したことで、鎌倉は河内源氏の東国支配の拠点となりました。 |
壺井八幡宮 (羽曳野市) |
源氏三代の墓 (羽曳野市) |
歴史・旧跡について,次の説明文の〔 〕に最も適当なものを 1 ~ 4 から選びなさい。 |
〔 ⒀ 〕の開山は栄西の弟子,〔 ⒁ 〕とされ,開基は〔 ⒂ 〕といわれる。1333年(元弘 3),新田義貞の鎌倉攻めで北条一門がここに火を放ち,14代執権〔 ⒃ 〕以下,一 族ら283人,総勢,約870 人余が自害したという。 |
(13) | |
1 永福寺 3 太平寺 |
2 東勝寺 4 勝長寿院 |
(14) | |
1 退耕行勇 3 兀庵普寧 |
2 大休正念 4 智海心慧 |
(15) | |
1 北条義時 3 北条政子 |
2 北条時政 4 北条泰時 |
(16) | |
1 北条長時 3 北条高時 |
2 北条貞時 4 北条経時 |
問題は東勝寺の説明。 東勝寺の開山は退耕行勇、開基は三代執権北条泰時と伝えられています。 幕府滅亡の際には、北条一族が火をかけ全焼してしまいますが、その後復興され、関東十刹の一つに数えられていました。 |
(13) 2 (14) 1 (15) 4 (16) 3 |
阿仏尼邸跡の石碑は,江ノ電〔 ⒄ 〕駅を海の方へ向かった右手奥にある。阿仏尼は実子冷泉為相とその兄との間に所領相続問題が生じ,〔 ⒅ 〕に正当性を訴えるため,1277 (建治3),京から鎌倉に下った。4 年間,〔 ⒆ 〕に住んだといわれる。『〔 ⒇ 〕』はその紀行・滞在記である。 |
(17) | |
1 長谷 3 極楽寺 |
2 由比ヶ浜 4 和田塚 |
(18) | |
1 北条時宗 3 北条泰時 |
2 北条時頼 4 北条義時 |
(19) | |
1 葛西ヶ谷 3 佐助ヶ谷 |
2 月影ヶ谷 4 紅葉ヶ谷 |
(20) | |
1 とはずがたり 3 東国紀行 |
2 東関紀行 4 十六夜日記 |
阿仏尼は、1279年(弘安2年)、息子の正当性を八代執権北条時宗に訴えるため鎌倉に下ったとされています(1277年(建治3年)だったという説も。)。 紀行文の『十六夜日記』には、 「あづまにてすむ所は 月かげのやつとぞいふなる 浦近き山もとにて風いとあらし 山寺のかたはらなれば のどかにすごくて浪の音松のかぜたえず」 と記されています。 山寺とは極楽寺のこと。 |
(13) 3 (14) 1 (15) 2 (16) 4 |
阿仏尼邸跡 |
阿仏尼墓 |
月影地蔵 |
冷泉為相墓 (浄光明寺) |
自然・景観の問題 |
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