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英勝寺墓地の崖下に「十六夜日記」の著者阿仏尼の墓と伝わる供養塔(層塔)がある。 台座には「阿佛」と刻まれているが、阿仏尼の墓として特定することは難しい。 ただ、浄光明寺の境内に阿仏尼の供養塔があったという伝承がある。 『新編鎌倉志』にも「阿仏ガ卵塔有シ」と記されていることから、昔から、扇ヶ谷に阿仏尼の墓と呼ばれるものがあったと考えられる。 浄光明寺裏山には、阿仏尼の息子・冷泉為相のものと伝わる宝篋印塔も存在していることから、向かい合わせに建てられたという推測もされている。 |
八代執権北条時宗の頃、藤原定家(新古今和歌集の撰者)の孫で冷泉家の祖となった為相の母(阿仏尼)が書いた紀行日記が『十六夜日記』。 『十六夜日記』には、遺産を巡って為相と異母兄との間に相続争いが起ったことから、阿仏尼が息子の正当性を幕府に訴えるため、鎌倉に下ってきたときのことが書かれている。 三嶋大社・箱根神社・伊豆山神社・鶴岡八幡宮・佐助稲荷神社・荏柄天神社などに和歌を奉納して必勝を祈願したことも書かれている。 鎌倉での阿仏尼の住まいは、極楽寺辺りの月影ヶ谷にあったとされ、英勝寺裏門にほど近い「やぐら」内の層塔が阿仏尼の墓だと伝えられる。 息子の為相も母を慕って鎌倉に下っており、藤ヶ谷に屋敷があって、鎌倉における歌壇の指導に当たっていた。 浄光明寺の裏山には、為相の墓と伝わる供養塔があるが、為相が鎌倉で死んだのかは不明。 いずれにしても、阿仏尼の墓と為相の墓はごく近い位置にあり、親子の愛が感じられる話である。 なお、『十六夜日記』には、訴訟の結果が記されていないため、阿仏尼は為相が勝訴したことを知らずに死んでいったと考えられている。 鎌倉で亡くなったのか、京都で亡くなったのかは不明。 |
源実朝の菩提を弔うために正妻の坊門姫(坊門信子・西八条禅尼)が興した京都の大通寺には阿仏尼の墓とされる「阿仏塚」がある。 |
冷泉為相は、平安時代に権勢を誇った藤原道長の子孫。 道長→長家→忠家→俊忠→俊成→定家→為家→為相。 |
阿仏尼の墓の横にある稲荷社。 かつて、ここには、智岸寺という尼寺があった。 |
阿仏尼邸跡 (極楽寺) |
冷泉為相 (浄光明寺) |
月影地蔵堂 (極楽寺) |
どこも苦地蔵堂 (瑞泉寺) |
どこも苦地蔵と阿仏尼の墓(okadoのブログ) |
英勝寺は、鎌倉唯一の尼寺。 太田道灌の子孫英勝院尼によって1636年(寛永13年)に創建された。 阿仏尼墓は、英勝寺の入口から横須賀線沿いに進んだやぐらの中にある。 |
鎌倉市扇ガ谷1−16−3 鎌倉駅西口より徒歩15分 |
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