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江ノ電の「極楽寺駅」からほど近い月影ヶ谷は、『十六夜日記』の作者阿仏尼が住んだ場所とされる。 阿仏尼は、藤原定家の子為家の妻で、冷泉家の祖・為相の母。 阿仏尼の夫為家は、正室(宇都宮頼綱の娘)の子為氏に財産を相続をさせていたが、親不孝を理由に阿仏尼との間に生まれた為相に「財産を譲る」という遺言をして亡くなった。 この遺言が争いのもととなり、為氏は鎌倉幕府に訴訟を起こすことになる。 当時の相続は、親が生存中に行うことができるとともに、相続させた財産を返してもらうということも可能だった。 阿仏尼は、八代執権北条時宗に為相の相続の正当性を訴えるため、1279年(弘安2年)、鎌倉に下ったとされている(1277年(建治3年)だったという説もある。)。 『十六夜日記』は京都から鎌倉への道中と、鎌倉に滞在中のことを記した紀行文。 三嶋大社・箱根神社・伊豆山神社・鶴岡八幡宮・佐助稲荷神社・荏柄天神社などに和歌を奉納して必勝を祈願したことも書かれている。 |
※ | 阿仏尼邸旧蹟碑の横にあるのは戸川稲村の句碑 「月影の谷若葉して道清志」 |
冷泉為相は、平安時代に権勢を誇った藤原道長の子孫。 道長→長家→忠家→俊忠→俊成→定家→為家→為相。 |
あづまにてすむ所は 月かげのやつとぞいふなる 浦近き山もとにて風いとあらし 山寺のかたはらなれば のどかにすごくて浪の音松のかぜたえず |
『十六夜日記』には、訴訟の結果が記されていないため、阿仏尼は為相が勝訴したことを知らずに死んでいったと考えられている。 扇ヶ谷には阿仏尼の墓と伝えられ層塔が残されている。 息子の為相も母を慕って鎌倉に下り、藤ヶ谷に住み、鎌倉における歌壇の指導に当たったと伝えられる。 浄光明寺の裏山には、冷泉為相墓と伝わる供養塔がある。 |
阿仏尼墓 (扇ヶ谷) |
冷泉為相墓 (浄光明寺) |
「知らざりし 浦山風も 梅が香は 都に似たる 春のあけぼの」 阿仏尼 |
阿仏尼は、京に戻ってから死んだともいわれる。 源実朝の菩提を弔うために正妻の坊門姫(坊門信子・西八条禅尼)が興した京都の大通寺には阿仏尼の墓とされる「阿仏塚」がある。 |
月影地蔵堂の地蔵菩薩像は阿仏尼邸に置かれていたものだという。 |
鎌倉市稲村ガ崎2丁目の江ノ電線路沿い 江ノ電「極楽寺駅」より徒歩2分 |
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