鎌倉手帳(寺社散策)

鎌倉殿の13人 二代執権北条義時
特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編 特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編



第17回鎌倉検定試験1級
《記述式の問題その4》

編集:yoritomo-japan.com








 次の文の〔 @ 〕,〔 A 〕に最も適当な語句を書きなさい。ただし,〔 @ 〕,〔 A 〕 両方できて正解とする。(各 2 点)





 〔 @ 〕,〔 A 〕ともに漢字で書きなさい。

(41) 1219年(建保7)正月,右大臣となった将軍源実朝は,鶴岡八幡宮寺で甥の〔 @ 〕 に殺される。幼少から京都文化の摂取につとめた実朝は,後鳥羽上皇や藤原定家の支援を受けつつ,多くの和歌を詠み,『〔 A 〕和歌集』を残している。


 後鳥羽上皇と良好な関係を保ってきた源実朝ですが、1219年(建保7年)1月27日、甥の公暁に暗殺されてしまいます。

 この事件を機に鎌倉幕府と後鳥羽上皇との関係は急激に悪化し、1221年(承久3年)には承久の乱が起こることに。

 歌人としての才能を発揮した実朝が残したのは『金槐和歌集』


答 @ 公暁 A 金槐



源実朝歌碑
リンクボタン源実朝の歌碑

 鶴岡八幡宮実朝の歌碑には、後鳥羽上皇への忠誠を表明する歌が刻まれています。



源実朝の暗殺


承久の乱





 〔 @ 〕,〔 A 〕ともに漢字で書きなさい。

(42) 源頼朝に所望されて,鶴岡八幡宮寺の〔 @ 〕の回廊で,源義経の愛妾静御前が義経を恋い慕う歌に託して舞った時,工藤祐経が鼓を打ち,〔 A 〕が銅拍子を担当したという。


 京の白拍子だった静御前は、源頼朝と不仲となり都を落ちた源義経と行動を共にしていましたが・・・

 吉野山で別れた後、捕らえられて鎌倉に送られてきました。

 そして、鶴岡八幡宮若宮の回廊で舞を披露することとなります。

 静御前は、義経を慕う今様(いまよう・歌謡)にあわせて舞います。

 工藤祐経が鼓を畠山重忠が銅拍子を担当しました。

 北条政子も感動する梁の塵を動かすほどの見事な舞だったそうです。


答 @ 若宮 A 畠山重忠



静の舞

静の舞


源義経



鶴岡八幡宮舞殿
リンクボタン舞殿(下拝殿)

 鶴岡八幡宮舞殿が建っている場所が若宮の回廊でした。

 若宮の上棟式で馬引き役を命ぜられて快く引き受けなかった義経が頼朝に??責された場所でもあります。

 リンクボタン源義経の大工の馬事件





〔 @ 〕,〔 A 〕ともに漢字で書きなさい。

(43) 1674年(延宝2),水戸藩主〔 @ 〕は鎌倉を訪れ,名所・旧跡を巡見し,『鎌倉日記』を著した。これを前提として,〔 @ 〕の命により家臣達が編纂にあたり,1685年(貞享2)に刊行されたのが,著名な鎌倉の地誌・案内書『〔 A 〕』である。


 『大日本史』の編纂を手掛けていた徳川光圀は、1674年(延宝2年)、自ら鎌倉を訪れて鎌倉の名所・旧蹟を巡遊。

 このときにまとめられた調査報告書が『鎌倉日記』であり、調査結果を基に編纂されたのが『新編鎌倉志』


答 @ 徳川光圀 A 新編鎌倉志



英勝寺
リンクボタン英勝寺

 鎌倉を訪れた徳川光圀が拠点としたのが水戸御殿と呼ばれた尼寺・英勝寺

 重要文化財の祠堂祠堂門は徳川光圀の寄進。





〔 @ 〕,〔 A 〕ともに漢字で書きなさい。

(44) 由比ヶ浜は,鎌倉時代には「〔 @ 〕」と呼ばれ,多くの家も浜に建ち,また小笠懸や流鏑馬,犬追物など武芸の修練場とされていた。一方で,1193 年(建久 4)には, 〔 A 〕が放生会を開催させたといわれ,神聖な宗教儀式の場ともなっていた。


 由比ヶ浜鶴岡八幡宮の前の浜という意味から「前浜」と呼ばれていました。

 鎌倉時代には、流鏑馬・小笠縣・犬追物などの武芸の修練場でもありました。

 源頼朝が放生会を行い、源実朝が渡宋を願って陳和卿に船を造らせた浜でもあります。

 伊豆・箱根の二所詣の際には、沐浴で身を清める「二所精進」が行われたのも由比ヶ浜でした。


答 @ 前浜 A 源頼朝



小坪・衣笠合戦

畠山重忠の乱

和田合戦


 由比ヶ浜は合戦の舞台にもなり、源義経静御前の子が捨てられた場所でもあります。 


リンクボタン母と子との悲しい運命〜源義経の子を産んだ静御前〜





〔 @ 〕,〔 A 〕ともに漢字で書きなさい。

(45) 3代執権北条泰時は幕府をそれまでの大倉から〔 @ 〕に移し,さらに1236年(嘉禎2)には〔 A 〕に移した。


 1225年(嘉禄元年)、北条政子が亡くなると三代執権北条泰時は、源氏三代と政子の大倉幕府宇津宮辻子に移しました。

 1236年(嘉禎2年)には若宮大路へ移されますが、実際は宇津宮辻子幕府と若宮大路幕府は同じであったという説も。


答 @ 宇津宮辻子 A 若宮大路



 1254年(建長6年)には、将軍御所で源親行が『光源氏物語』の講義を行っています。

 『光源氏物語』とは、紫式部『源氏物語』のこと。


リンクボタン北条実時と源氏物語〜尾張徳川家に伝えられた源氏物語〜










〔 @ 〕,〔 A 〕ともに漢字で書きなさい。

(46) 鎌倉においてツバキの名花として知られているのは,覚園寺の「〔 @ 〕」と,英勝寺の「〔 A 〕」である。


答 @ 太郎庵 A 侘助



英勝寺侘助
リンクボタン侘助

 覚園寺の「太郎庵」とともに天然記念物に指定されていた英勝寺「侘助」は、2023年(令和5年)に枯死が確認されています。





〔 @ 〕はカタカナで,〔 A 〕は漢字で書きなさい。

(47) 1969 年(昭和44),神奈川県立フラワーセンター大船植物園(現神奈川県立大船フラワーセンター)内にある〔 @ 〕の中から発見された早咲きで花期(花を付ける期間)が長い株は,選抜が重ねられ,株数を増やし,固有種としての育成に成功し,1990 年(平成2)には,「〔 A 〕」という名称で正式に新種として登録されている。


答 @ ソメイヨシノ A 玉縄桜



玉縄桜
桜玉縄桜


 ソメイヨシノの種をまいた中から、早く開花する個体を選んで育成されたのが玉縄桜



鎌倉の桜





〔 @ 〕,〔 A 〕ともに漢字で書きなさい。

(48) 妙本寺境内には比企能員の娘で鎌倉幕府2代将軍源頼家に嫁した若狭局を祀る〔 @ 〕, 比企一族の供養塔,頼家と若狭局の間に生まれ,わずか6歳で落命した幼児一幡を祀る〔 A 〕などがある。


 妙本寺のある比企ヶ谷は、源頼朝が乳母の比企尼を迎え入れた場所。

 そして、比企一族滅亡の地。


答 @ 蛇苦止堂 A 袖塚



 1203年(建仁3年)9月2日、北条時政比企能員を暗殺。

 比企一族は北条政子の命を受けた北条義時に滅ぼされました。


比企一族供養塔
リンクボタン比企一族墓
一幡の袖塚
リンクボタン一幡袖塚


 妙本寺には比企一族の供養塔源頼家の嫡子一幡の袖塚があります。



妙本寺蛇苦止明神
リンクボタン蛇苦止堂
蛇苦止ノ井
リンクボタン蛇形井


 妙本寺蛇苦止堂には、一幡の母・若狭局が祀られています。

 蛇形井(蛇苦止ノ井)は若狭局が身を投じたという井戸。



比企氏の乱





〔 @ 〕,〔 A 〕ともに漢字で書きなさい。

(49) 長谷寺本尊の十一面観音菩薩像の,左手に〔 @ 〕を持って観音のご利益を,右手には〔 A 〕を持って地蔵のご利益を同時にあたえてくれる珍しい姿は,長谷寺様式と呼ばれ,奈良長谷寺の本尊と共通している。


 長谷寺の開山・徳道はクスノキの霊木から二体の十一面観音像を彫らせました。

 一体は大和国(奈良)の長谷寺に安置され、もう一体は行基によって海に流されますが、三浦半島の長井の浦に流れ着き、鎌倉に運ばれたのだといいます。


答 @ 蓮華 A 錫杖



鎌倉・長谷寺
リンクボタン長谷寺
(鎌倉)
長谷寺仁王門
リンクボタン長谷寺
(奈良)


 鎌倉の長谷寺奈良の長谷寺の本尊は、十一面観音像。

 右手に錫杖を左手に蓮華の花瓶を持ち、蓮華座ではなく平らな石(大磐石)の上に立つ独特な像であることから「長谷寺式十一面観音」と呼ばれています。



長谷観音
リンクボタン長谷寺縁起絵巻


 鎌倉の長谷寺に伝えられる「長谷寺縁起絵巻」は、奈良の長谷寺の草創と十一面観音造立の由来を描いたもの。



長谷観音の伝説





〔 @ 〕,〔 A 〕ともに漢字で書きなさい。

(50) 大町の鎮守八雲神社は,永保年間(1081 〜 1084 年),〔 @ 〕が兄の源義家の奥州攻めの助勢に向かう途中,鎌倉に立ち寄ると,悪疫流行で里民が難儀しているのを知り, これを救うため京都〔 A 〕の祭神を勧請したのが始まりという。


 大町の八雲神社は、新羅三郎義光(源義光)が兄八幡太郎義家(源義家)の助勢(後三年の役)のため奥州に赴く途中で京都の祇園八坂社(現在の八坂神社)の祭神を勧請した鎌倉最古の厄除け神社。


答 
@ 源(新羅三郎)義光
A 祇園社(八坂神社)



鎌倉八雲神社
リンクボタン八雲神社
八坂神社
リンクボタン八坂神社
(京都)


 京都の八坂神社は牛頭天王を祭神としていたことから、「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていました。

 八雲神社も「祇園さま」として尊崇された社。

 京都三大祭の一つ祇園祭八坂神社の祭礼。

 八雲神社の祭礼「大町まつり」も祇園信仰の祭。



園城寺新羅善神堂
リンクボタン新羅善神堂
(大津市)
新羅三郎義光の墓
リンクボタン新羅三郎義光墓
(大寶寺)


 源義光は園城寺新羅善神堂で元服したことから「新羅三郎」と呼ばれました。

 長兄の義家は石清水八幡宮で元服したことから「八幡太郎」、次兄の義綱は賀茂神社で元服したことから賀茂次郎と呼ばれていました。

 「大町まつり」の神輿は、大寶寺義光の墓に向かい祝詞を奏してから町内を巡行します。





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