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歴史・旧跡に関する記述について、最も適当なものを1〜4から選びなさい。 |
(1) | 鎌倉幕府関係者が編纂したといわれる,1180 年(治承 4)から 1266 年(文永 3)に至る歴史書を何というか。 |
1 『今鏡』 3 『吾妻鏡』 |
2 『増鏡』 4 『大鏡』 |
『今鏡』は平安時代末期の歴史物語。 『増鏡』は南北朝時代の歴史物語。 『大鏡』は平安時代後期の歴史物語。 |
(2) | 大倉に居を構え,武士として初めて幕府を開いた人物はだれか。 |
1 源義家 3 源義朝 |
2 源頼義 4 源頼朝 |
1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をした源頼朝は、鎌倉を本拠として武家の都を創りました。 頼朝が大倉の地に建てた御所は、のちに大倉幕府と呼ばれます。 |
(3) | 源実朝の暗殺を北条義時追討の好機と考えて,鎌倉幕府に戦いを挑んだ人物はだれか。 |
1 後三条天皇 3 後白河法皇 |
2 鳥羽上皇 4 後鳥羽上皇 |
1221年(承久3年)、後鳥羽上皇は城南寺(城南宮)の流鏑馬揃えを口実に兵を集め、北条義時追討の院宣を発しました(承久の乱)。 北条政子は後鳥羽上皇挙兵の報に動揺する御家人に対し、「故右大将(源頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い・・・」と説いて御家人の結束を固めたとのだと伝えられています。 鶴岡八幡宮の今宮には、承久の乱で流された後鳥羽、土御門、順徳の三上皇(天皇)が祀られています。 |
城南宮 (京都) |
今宮 (鶴岡八幡宮) |
北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) |
(4) | 鎌倉時代,将軍を補佐するために置かれた,御家人の最高位の役職を何というか。 |
1 別当 3 執権 |
2 管領 4 執事 |
「将軍を補佐し、政務を統べる重要な役職」を執権といいます。 |
(5) | 鎌倉幕府3代将軍源実朝の和歌を集めた歌集を何というか。 |
1 『山家集』 2 『金槐和歌集』 3 『新古今和歌集』 4 『千載和歌集』 |
『山家集』は西行の歌集。 『新古今和歌集』は鎌倉時代前期に編纂された勅撰和歌集。 『千載和歌集』は平安時代末に編纂された勅撰和歌集。 源実朝が編んだのは『金槐和歌集』。 「金」の字は、鎌倉の「鎌」の編をとったもので、「槐」は大臣を表します。つまり、鎌倉の右大臣の家集ということになります。 |
(6) | 鎌倉の経済を支える海上交易の拠点として,北条泰時によってつくられた現存する日本最古の築港遺跡を何というか。 |
1 津村 3 片瀬東浜 |
2 江ノ島 4 和賀江嶋 |
材木座の和賀江嶋は、1232年(貞永元年)、往阿弥陀仏という勧進僧が、三代執権北条泰時の許しを得て造り上げました。 |
(7) | 鎌倉時代に書かれた,鎌倉についての記述がみられる紀行文はどれか。 |
1 『古事記』 2 『天養記』 3 『海道記』 4 『奥州後三年記』 |
『古事記』は奈良時代に編纂された日本最古の歴史書。 『天養記』 は源義朝の大庭御厨乱入事件に関連する古文書。 『奥州後三年記』は源義家の「後三年の役」を描いたもの。 |
(8) | 戦国大名長尾景虎が上杉憲政から山内上杉家の名跡を譲られた場所はどこか。 |
1 鶴岡八幡宮 3 円覚寺 |
2 建長寺 4 荏柄天神社 |
1561年(永禄4年)3月、上杉憲政は山内上杉家の家督と関東管領の職を長尾景虎(上杉謙信)に譲りました。 関東管領は上杉氏が世襲していた職で、就任すると鶴岡八幡宮へ参拝するのが例になっていたのだといいます。 |
(9) | 1674 年(延宝 2)に徳川光圀が鎌倉入りした際に宿舎として利用した寺院はどこか。 |
1 東慶寺 3 薬王寺 |
2 光触寺 4 英勝寺 |
『新編鎌倉志』を編纂するため鎌倉を訪れた徳川光圀が拠点としたのは水戸御殿と呼ばれた尼寺・英勝寺。 重要文化財の祠堂・祠堂門は徳川光圀の寄進。 |
(10) | 鎌倉時代に由比ヶ浜は何と呼ばれていたか。 |
1 前浜 3 西浜 |
2 上浜 4 横浜 |
鶴岡八幡宮の前の浜という意味から「前浜」と呼ばれていました。 |
(11) | 最後の得宗北条高時の屍が葬られたと伝えられている「腹切りやぐら」があるのはどこか。 |
1 太平寺跡 3 東勝寺跡 |
2 永福寺跡 4 勝長寿院跡 |
1333年(元弘3年)5月21日未明、新田義貞が稲村ヶ崎を突破。 新田軍の乱入により鎌倉市中は炎上。 翌22日、北条高時以下の北条一族が東勝寺で自刃したことにより、鎌倉幕府は滅亡しました。 |
(12) | 鎌倉にある城址でもっとも古いといわれているものはどれか。 |
1 住吉城址 3 天神山城址 |
2 玉縄城址 4 杉本城址 |
住吉城、玉縄城、天神山城は戦国期に築かれた城。 杉本城は、三浦義明の長男杉本義宗によって築かれたとされ、六浦道を抑える要衝でした。 |
玉縄城址 |
住吉城址 |
(13) | 大仏切通の北に位置し,鎌倉防衛の要衝で鎌倉時代を代表する武家屋敷跡は何か。 |
1 北条高時邸跡 2 安達泰盛屋敷跡 3 長者屋敷跡 4 北条氏常盤亭跡 |
第七代執権北条政村をはじめとする北条氏(政村流)は、鎌倉の防衛の要衝である常盤に別邸を構えました。 |
(14) | 鎌倉十井のうち,極楽寺切通の登り口にあるものは何か。 |
1 鉄ノ井 3 星ノ井 |
2 泉ノ井 4 扇ノ井 |
鉄ノ井は小町通りのはずれ、泉ノ井と扇ノ井は扇ヶ谷にあります。 |
(15) | 源為朝の伝説が残る,材木座から小坪に抜ける海際の道にある鎌倉十井の1つは何か。 |
1 甘露ノ井 3 棟立ノ井 |
2 底脱ノ井 4 六角ノ井 |
甘露ノ井は浄智寺門前、底脱ノ井は海蔵寺門前、棟立ノ井は覚園寺にあります。 |
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(16) | 東大寺再興の勧進のため,陸奥に赴く途中,鎌倉で源頼朝に謁見した逸話が残る僧はだれか。 |
1 一遍 3 栄西 |
2 西行 4 円暁 |
1186年(文治2年)8月15日、東大寺再建の勧進のため奥州平泉へ赴く途中の西行が鎌倉に立ち寄りました。 源頼朝は、西行を御所に招き、弓馬のことを聞き、翌年の放生会で流鏑馬を奉納したのだと伝えられています。 |
西行と流鏑馬 |
東大寺 |
(17) | 鎌倉七口のうち,藤沢を経て武蔵方面に通じる,戦略上きわめて重要な拠点だったものはどこか。 |
1 亀ヶ谷坂 3 巨福呂坂 |
2 仮粧坂 4 極楽寺切通 |
亀ヶ谷坂は、扇ヶ谷と山ノ内を結ぶ古道。 巨福呂坂は、鶴岡八幡宮西側から山ノ内に通ずる古道。 極楽寺切通は、鎌倉から七里ヶ浜、腰越、片瀬を抜けて東海道へと通じ、京都への出発点。 |
仮粧坂 |
鎌倉七口 |
(18) | 鎌倉という地名伝承の一つで,由井里(今の由比ヶ浜)に泊まった夜に不思議な夢を見たので,護身用に持参していた鎌(鎌槍)を大倉の松ヶ岡に埋めた,という人物はだれか。 |
1 天智天皇 3 藤原鎌足 |
2 坂上田村麻呂 4 日本武尊 |
藤原鎌足が大職冠という官位を授かり、鹿島神宮へ詣でた際に、持っていた鎌を鎌倉の松ヶ岡に埋めたので「鎌倉」と呼ばれるようになったという伝説があります。 松ヶ岡がどこなのか不明ですが、浄妙寺の鎌足稲荷社、鶴岡八幡宮の大臣山にその伝説が残されています。 |
鎌足稲荷社 (浄妙寺) |
大臣山 (鶴岡八幡宮) |
(19) | 大御堂橋辺りを流れる滑川は,古くは何と呼ばれていたか。 |
1 太刀洗川 3 坐禅川 |
2 胡桃川 4 閻魔川 |
大御堂橋の付近には、文覚の屋敷があったことから、坐禅川と呼ばれていました。 |
滑川 |
文覚屋敷跡 |
(20) | 鶴岡八幡宮の東の岐れ路から朝比奈峠を越えて金沢八景に至る街道を古くは何といわれていたか。 |
1 上の道 3 下の道 |
2 中の道 4 六浦道 |
鎌倉と六浦津(むつらのつ)を結ぶ道は六浦道(六浦路)と呼ばれ、筋違橋から浄明寺・十二所を通り、朝夷奈切通を越えて六浦へと通じていました。 |
自然・景観の問題 |
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