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1200年(正治2年) |
梶原景時が滅亡。 北条政子が壽福寺を建立。 |
梶原景時の墓 |
壽福寺 |
1202年(建仁2年) |
源頼家が征夷大将軍となる。 |
1203年(建仁3年) |
比企能員の暗殺・比企氏滅亡(比企の乱)。 源頼家が修禅寺に流され、源実朝が征夷大将軍となる。 |
1204年(元久元年) |
源頼家が修禅寺で暗殺される。 |
1205年(元久2年) |
畠山重忠が謀殺される。 北条時政が鎌倉から追放される。 |
畠山重忠終焉地 |
畠山重忠 |
1212年(建暦2年) |
源実朝が大慈寺を建立。 |
1213年(建暦3年・建保元年) |
和田義盛滅亡。 源実朝が金槐和歌集を編纂。 |
1216年(建保4年) |
運慶が称名寺の大威徳明王を作る。 運慶が源実朝の持仏堂の釈迦如来像を作る。 |
1218年(建保6年) |
源実朝、右大臣に任官。 北条義時が大倉薬師堂(のちの覚園寺)を建立。運慶が大倉薬師堂の薬師如来像を作る。 |
1219年(建保7年・承久元年) |
源実朝が暗殺される。 運慶が勝長寿院の五代尊像を作る。 北条泰時が成就院を建立。 |
源頼朝が亡くなると、頼朝に仕えた御家人が次々に滅ぼされました。 さらに頼朝の跡を継いだ頼家、実朝も暗殺され、源氏の時代が終わりました。 |
運慶は、奈良興福寺を拠点に活動していた仏師。 この頃、鎌倉では盛んに運慶による造仏が行われました。 |
1221年(承久3年) |
承久の乱(後鳥羽上皇をはじめ三上皇が永久遠島)。 |
1224年(元仁元年) |
北条義時死去。 |
1225年(嘉禄元年) |
北条政子が長楽寺を建立(参考:安養院)。 北条政子死去。 幕府が宇津都辻子に移転。 |
長楽寺跡 |
宇津都辻子 幕府跡 |
1226年(嘉禄2年) |
藤原(九条)頼経が征夷大将軍となる。 |
1232年(貞永元年) |
北条泰時が御成敗式目を制定。 往阿弥陀仏が和賀江嶋を築く。 |
1235年(嘉禎元年) |
藤原(九条)頼経が明王院を建立。 |
1236年(嘉禎2年) |
藤原(九条)頼経が若宮大路幕府に移る。 |
1237年(嘉禎3年) |
北条泰時が粟船御堂(のちの常楽寺)を建立。 |
1241年(仁治2年) |
朝夷奈切通完成。 |
1242年(仁治3年) |
北条泰時死去。 |
1243年(寛元元年) |
北条経時が光明寺を建立。 |
頼朝の鎌倉入り から死まで |
北条氏の時代 その2 |
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