平治の乱の敗北後、平清盛に捕えられた頼朝は、源氏の正嫡であることから処刑を免れることはできない状況に置かれていました。 しかし、清盛の継母池禅尼の懇請で命を助けられたと伝えられています。 助命となった頼朝は1160年(永暦元年)3月11日、伊豆国流罪となります。 流されたのは蛭ヶ小島だったと伝えられています。 伊豆に流される頼朝に池禅尼は地蔵菩薩像を与えたのだといいます。 頼朝の父義朝の墓がある野間大坊の客殿に祀られている像がそれなのだとか。 |
配流地の伊豆へ赴く頼朝が源氏再興を祈願したという社。 |
藤原隆家は、関白藤原道隆の四男。 兄の伊周とともに藤原道長と政権を争った平安中期の公卿。 頼朝の命を救った池禅尼や、三男実朝の正妻坊門姫は、隆家の子孫なのだという。 |
源頼朝の助命嘆願をした池禅尼 源頼朝が流された地は伊東という説 |
〜比較的自由な暮らしが許されていた頼朝〜 |
伊豆に流された頼朝は罪人ですので、その社会的な地位は否定されていました。 したがって、所領を持つこと、家来を持つこと、伊豆国の外へ出ることなどができなかったようです。 しかし、様々な援助によって、生活には困らなかったようですし、乗馬や狩猟は自由だったといいます。 特に乳母の比企尼の物資の援助は、頼朝を助けたと思われますし、尼の娘婿の安達盛長、河越重頼、伊東祐清、甥の比企能員なども頼朝の支援者として働いていたものと考えられています。 また、母由良御前の弟祐範は毎月使者を送り、伯母が頼朝の乳母だったという三善康信は定期的に京都の情報を送り続けていたのだといいます。 おそらく、母の実家である熱田神宮大宮司の援助も受けていたのでしょう。 他に、小山政光の妻寒川尼、山内俊通の妻山内尼といった乳母たちも、何らかの形で頼朝を支援していたのではないでしょうか。 こうした環境の中での生活となった頼朝は、箱根権現や走湯権現に帰依し、父義朝や源氏一門の菩提を弔いながら、約20年間を伊豆国で過ごすこととなります。 |
比企尼 | 寒河尼 | 山内尼 |
箱根神社 (箱根権現) |
伊豆山神社 (走湯権現) |
流人の頼朝が崇敬した箱根権現と走湯権現は、古代からの霊地。 |
智満寺は、流人の頼朝が参籠して源氏再興を祈願したという古刹。 |
2022年(令和4年)、智満寺に聳えていた頼朝お手植えと伝わる「頼朝杉」で制作された源頼朝像と像を納める厨子が完成。 各地で特別公開された後、鶴岡八幡宮に奉納される予定だったが、安置場所の関係から見送りとなった。 |
慈光寺は、頼朝が流人時代から信仰した観音霊場。 安達盛長を使者として遣わし、署名入りの梵鐘を鋳造させているらしい。 |
鳳来寺は、平治の乱に敗れた頼朝が匿われていたという薬師如来の霊場。 伊豆国流罪となった後も3年間匿われていたのだとか・・・ 鳳来寺には、頼朝を尊敬していたという徳川家康の出生伝説や、源義経との悲恋に死んだ浄瑠璃姫の伝説が残されています。 徳川四天王の一人に数えられた井伊直政も少年期を鳳来寺で過ごしたのだといいます。 |
長兄の義平は、捕えられて六条河原で斬首。 次兄の朝長は、東国へ向かう途中で落人狩りに遭って負傷したため、父義朝に殺してもらったのだといいます。 同母の弟希義は、土佐国介良荘に流罪。 常盤御前が産んだ今若(全成)・乙若(義円)は、それぞれ醍醐寺・園城寺に入って出家。 生まれたばかりだった牛若(義経)は、11歳の時に鞍馬寺に預けられました。 |
石山寺 (大津市) |
多宝塔 (石山寺) |
平治の乱後、清盛の暗殺を企てた義平は、石山寺付近に潜んでいるところを捕らえられたのだといいます。 のちに頼朝は、義平を匿ってくれた礼として、石山寺に多宝塔を寄進したのだと伝えられています。 源義平の最期 |
義平の妻祥寿姫は、京都で晒された義平の首を故郷の上野国新田荘に持ち帰り葬ったのだと伝えられています(清泉寺)。 祥寿姫は、新田義重の娘。 |
醍醐寺 (京都) |
園城寺 (大津市) |
もう一人の異母弟範頼は、藤原範季に養育されていたと伝えられていますが、比企尼とその一族の庇護を受けていたという伝承もあります。 |
安楽寺 (埼玉県吉見町) |
息障院 (埼玉県吉見町) |
埼玉県吉見町の安楽寺は、平治の乱後、範頼が隠れ住んだという寺。 息障院は、範頼の館跡と伝えられる地にある寺。 |
蒲神明宮は、範頼が生まれ育った地に鎮座する神社。 |
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