源頼朝の父義朝は、少年期に東国へ下向して、上総御曹司と呼ばれていました。 何故、東国で過ごしていたのかは不明ですが、父の為義から廃嫡されたためという説もあります。 東国で成長した義朝は、鎌倉の亀ヶ谷(現在の壽福寺辺り)に館を構え、南関東の武士団を統率する地位を確立し、中央へと進出します。 1147年(久安3年)には嫡男の頼朝が誕生。 その後、院近臣を後ろ盾とした義朝は、1153年(仁平3年)に下野守に任じられ、都の武者としての地位を高めていきます。 1155年(久寿2年)には、北関東に勢力を伸ばした弟の義賢を滅ぼして、東国を支配下に置きます。 その翌年に起こったのが保元の乱。 |
壽福寺 (鎌倉) |
源義賢の墓 (嵐山町) |
1156年(保元元年)7月、皇位継承問題と摂関家の内紛から後白河天皇と崇徳上皇の分裂に、源氏と平氏の武力が加わった政変「保元の乱」で、義朝は平清盛とともに後白河天皇に味方して勝利します。 義朝の父為義と弟為朝は、崇徳上皇方についたため、乱後、為義は斬首、為朝は伊豆大島に流されました。 |
保元の乱・・・武士の台頭(okadoのブログ) |
しかし、源氏が政界の中心にいる時代は長続きしませんでした。 保元の乱後、朝廷内では信西と藤原信頼が対立し、1159年(平治元年)12月、信頼と義朝が結びついて平治の乱を引き起こします。 平治の乱では、13歳の頼朝が源家重代の源太が産衣(げんたがうぶぎぬ)を着用し、髭切の太刀(ひげきりのたち)を帯びて初陣。 しかし、12月27日、父義朝は清盛に敗れ、京を脱出して東国で再起を図ろうとしますが、翌1160年(平治2年)1月3日、尾張国で長田忠致の裏切りに遭って殺害されてしまいます。 京を落ちる時には頼朝も義朝と行動をともにしていましたが、美濃で一行とはぐれてしまったため、義朝が殺害されたときには一緒にいませんでした。 命拾いした頼朝でしたが、1160年(永暦元年)2月9日、捕えられて清盛のいる六波羅へと送られます。 |
藤原信頼と結んだ源義朝は、後白河上皇の三条殿を襲撃。 三条東殿遺址は、平治の乱勃発の地。 |
一本御書所は、後白河上皇が幽閉された施設。 |
奥津嶋神社は、琵琶湖最大の沖島に鎮座する社。 沖島の住人の先祖は保元・平治の乱で敗れた源氏の落武者7人なのだという。 奥津嶋神社の神紋はササリンドウ。 |
源義朝墓 (愛知県美浜町) |
野間大坊 (愛知県美浜町) |
源頼朝を匿った草野定康 たった八騎で都を落ちた源義朝 常盤御前に源義朝の死を知らせた金王丸 源義朝を暗殺した長田忠致 源義平の最期 |
平治の乱・・・明暗が分かれた平氏と源氏(okadoのブログ) |
平治の乱で初陣の頼朝が着用した「源太が産衣」(げんたがうぶぎぬ)は、源氏に伝えられた「源氏八領」の一つ。 源太とは、八幡太郎と呼ばれた源義家の幼名。 義家が二歳の時に、敦明親王から「義家を見たい」と命じられた父の源頼義が、わざわざ新調した鎧なのだといいます。 胸板には、天照大神・正八幡大菩薩が鋳付けられ、左右の袖には、藤の花がつづり合わせられていたそうです。 平治の乱後、京を落ちた頼朝は、美濃の山中でこの鎧を脱ぎ捨てたのだと伝えられています。 |
平治の乱で初陣の頼朝が帯したという「髭切の太刀」(ひげきりのたち)は、源満仲が作らせたもので、罪人を試し切りした際に髭まで切れたから付けられ名だといいます。 源頼光の代には、頼光の四天王の一人渡辺綱が一条戻橋で鬼女の腕を切り落としたという伝説が残され、「鬼切」と名を変えたともいいます。 その後、何度か名を変えますが、源義朝の代に「髭切」に戻されました。 鎌倉時代には頼朝の法華堂に納められていたといいますが、1333年(元弘3年)、鎌倉に攻め入った新田義貞が持ち出したといわれ、現在、北野天満宮所蔵の「髭切」がそれだとも伝えられています(重要文化財)。 |
一条戻橋 (京都市上京区) |
北野天満宮 (京都市上京区)) |
誕生 |
伊豆国流罪 |
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