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歴史・旧跡に関する記述について、最も適当なものを1~4から選びなさい。 |
(1) | 鎌倉郡衙が所在していたことが確認されるきっかけとなった,「天平五年」(733年)と記された木簡が発見された遺跡はどこか。 |
1 台山藤源治遺跡 2 長谷小路周辺遺跡 3 今小路西遺跡 4 水道山戸ヶ崎遺跡 |
1985年(昭和60年)の発掘調査で、御成小学校の敷地内の今小路西遺跡から「天平五年 (733 年)」と記された木簡が発見されました。 |
今小路 |
木簡 |
(2) | 源頼朝に所望され,静御前が舞を舞ったのは鶴岡八幡宮のどこと伝えられているか。 |
1 本殿 3 参道 |
2 舞殿 4 若宮回廊 |
1186年(文治2年)4月8日、静御前は鶴岡八幡宮の若宮回廊で舞いました。 鎌倉まつりでは、若宮回廊跡に建てられた舞殿で「静の舞」が奉仕されます。 |
北条政子を感動させた静の舞~梁塵を動かす歌と舞~ 母と子との悲しい運命~源義経の子を産んだ静御前~ |
(3) | 3代執権北条泰時のころの鎌倉の四境のうち,正しい組み合わせはどれか。 |
1 南-長柄 3 西-腰越 |
2 東-六浦 4 北-山崎 |
1224年(元仁元年)12月26日、疫病の流行に対し北条泰時は、六浦、小坪、稲村、山内の四境(鎌倉の境界(外側)で「四角四境祭」を執り行っています。 1235年(嘉禎元年)、四代将軍藤原(九条)頼経が疱瘡にかかった際にも「四角四境祭」が行われました。 この時の四境は、巨福呂坂・小坪・六浦・片瀬。 |
(4) | 時宗の開祖一遍の鎌倉入りを阻止したのは,だれの警護をしていた武士か。 |
1 北条時宗 3 北条貞時 |
2 北条時頼 4 北条高時 |
1282年(弘安5年)3月1日、一遍は巨福呂坂から鎌倉に入ろうとしますが、八代執権北条時宗に阻止されてしまいます。 その晩は山ノ内の光照寺付近で野宿し、翌2日片瀬に入って念仏を行ったと伝えられています。 |
光照寺 |
一遍地蔵堂跡 (片瀬) |
(5) | 創立100周年を記念して,「ここに鎌倉海濱院,鎌倉海濱ホテルありき」と刻まれた石碑を鎌倉海浜公園に設置した団体は何か。 |
1 鎌倉商工会議所 2 鎌倉同人会 3 鎌倉市観光協会 4 鎌倉青年会 |
碑は鎌倉海浜公園(由比ガ浜地区)のタンコロの横に鎌倉同人会創立100年を記念して建てられました。 鎌倉海浜院は、1887年(明治20年)、長与専斎によって開院された、わが国最初の海浜サナトリウム(結核療養所)。 |
(6) | 源頼朝が鎌倉の地に新邸を造営しようとしたとき,当初の候補地だったが,土地が狭く造営を断念したとされる父源義朝の旧蹟はどこか。 |
1 亀ヶ谷 3 大町 |
2 小町 4 二階堂 |
1180年(治承4年)10月7日、鎌倉に入った源頼朝は、父義朝の館があったという亀ヶ谷(現在の扇ヶ谷の壽福寺付近)に御所を造営しようと考えますが、 思いのほか狭く、岡崎義実が建てたという義朝を祀る祠もあったことから、大倉の地に変更しています。 大倉に建てられた御所は、のちに大倉幕府と呼ばれます。 |
壽福寺 |
大倉幕府跡 |
(7) | 次の橋のうち,鎌倉十橋に含まれないのはどれか。 |
1 乱橋 3 勝ノ橋 |
2 歌ノ橋 4 華ノ橋 |
華ノ橋は報国寺門前の滑川に架けられている橋ですが、鎌倉十橋には含まれていません。 |
(8) | 鎌倉十井の一つ「底脱ノ井」の由来を語る伝説で,この井戸の水を汲んで桶の底が抜けたので,「千代能がいただく桶の底抜けて水たまらねば月もやどらじ」という和歌を詠んだ女性は,だれの娘だといわれているか。 |
1 太田道灌 3 上杉定正 |
2 安達泰盛 4 三浦義村 |
千代能は安達泰盛の娘。 金沢顕時に嫁ぎ、顕時の死後は、仏光国師(無学祖元)に参禅し、無着如大と号したのだといわれています。 |
(9) | 源氏の一族について,次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 |
1 | 平忠常の乱の平定後,源頼義は,関東の豪族平直方に,その武勇を認められ,娘婿に迎えられ,鎌倉の屋敷を譲られた。 |
2 | 源義朝は,鎌倉権五郎景政が石清水八幡宮に寄進した荘園である大庭御厨に度々侵入した。 |
3 | 平治の乱の約20年後,源頼朝は,配流の地伊豆で打倒平氏の兵を挙げた。 |
4 | 第三代将軍源実朝の死により源氏将軍が途絶え,北条氏が幕府の実権を掌握した。 |
鎌倉権五郎景政が開発した大庭御厨は伊勢神宮に寄進した相模国最大の寄進地系荘園。 |
(10) | 和田合戦について,次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 |
1 | 和田合戦の原因は,北条義時が謀反の疑いで和田義盛の子と甥を処罰したためである。 |
2 | 和田合戦の最中,宇津宮辻子にあった御所は,和田義盛の子朝比奈三郎義秀に攻め入られ,焼失した。 |
3 | 時の将軍であった源実朝は,御所の北方にある頼朝法華堂に逃げ込んで難を免れた。 |
4 | 由比ヶ浜や若宮大路での激戦の末,和田義盛が戦死,和田氏の敗北で合戦は終結した。 |
和田合戦が起こったのは1213年(建暦3年)。 御所は大倉にありました。 |
歴史・旧跡について関連のあることがらの組み合わせとして誤っているものを1~4から選びなさい。 |
(11) | 人物と墓所 |
1 | 上杉憲方 -極楽寺坂にある七層塔 |
2 | 冷泉為相 -浄光明寺の裏山の宝篋印塔 |
3 | 梶原景時 -常楽寺の裏山の塚 |
4 | 日野俊基 -葛原岡神社境内の宝篋印塔 |
常楽寺の裏山にある塚は、木曽義仲の嫡子義高の墓といわれる「木曽塚」。 |
伝上杉憲方墓 |
冷泉為相墓 |
木曽塚 |
日野俊基の墓 |
梶原景時の墓 |
(12) | 鎌倉七口・切通とそれに関連する人物・事柄 |
1 | 朝夷奈切通 -朝比奈三郎義秀,梶原太刀洗水 |
2 | 仮粧坂 -北条泰時,源氏山 |
3 | 極楽寺切通 -成就院,虚空蔵堂 |
4 | 亀ヶ谷坂 -岩船地蔵堂,長壽寺 |
北条泰時は仮粧坂には関係ないということなのかと思われます。 |
歴史・旧跡について、次の説明文の[ ]に最も適当なものを1~4から選びなさい。 |
鎌倉公方足利基氏の未亡人〔 (13) 〕が中興して,鎌倉尼五山の第一位とされた〔 (14) 〕は,最後の住職が,鎌倉に攻め込んだ戦国武将〔 (15) 〕と安房に渡ったので廃寺となり,その〔 (16) 〕は,舎利殿として円覚寺に移築され,現在は国宝に指定されている。 |
(13) | |
1 覚山尼 3 天秀尼 |
2 清渓尼 4 青岳尼 |
(14) | |
1 東慶寺 3 英勝寺 |
2 太平寺 4 高松寺 |
鎌倉尼五山の第一位は太平寺。源頼朝の創建とも伝えられ、のちに鎌倉公方の足利基氏の妻清渓尼によって中興されました。 |
(15) | |
1 上杉謙信 3 今川義元 |
2 武田信玄 4 里見義弘 |
(16) | |
1 薬師堂 3 法堂 |
2 仏殿 4 阿弥陀堂 |
太平寺は、1556年(弘治2年)、安房の里見義弘が鎌倉に攻め入った際に、住職の青岳尼(義弘の最初の正室)が安房に渡ったため北条氏康によって廃寺とされました。 太平寺の仏殿だった建物は、1573年(天正元年)、円覚寺に移築されています(国宝の舎利殿)。 |
太平寺跡 |
舎利殿 |
〔 (17) 〕やぐらは鎌倉に現存するやぐらの中で最も大きい。壁面には基壇が設置され,壇上に〔 (18) 〕如来,〔 (19) 〕如来が浮き彫りにされている。基壇上部に十六羅漢像の浮き彫りがあり,このやぐらが「羅漢洞」といわれる由縁となっている。関東管領の〔 (20) 〕の墓所と伝えられ,中央には宝篋印塔が祀られている。 |
(17) | |
1 日月 3 明月院 |
2 朱垂木 4 百八 |
(18) | |
1 薬師 3 阿弥陀 |
2 大日 4 釈迦 |
(19) | |
1 多宝 3 定光 |
2 阿閦 4 宝生 |
(20) | |
1 上杉憲顕 3 上杉憲方 |
2 上杉憲実 4 上杉氏憲 |
鎌倉最大のやぐらは「明月院やぐら」。 中央に建てられた宝篋印塔は、山内上杉家の上杉憲方のものと伝えられています。 |
(17) 3 (18) 4 (19) 1 (20) 3 |
自然・景観の問題 |
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