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歴史・旧跡に関する記述について、最も適当なものを1〜4から選びなさい。 |
鎌倉に居を構え、武士として初めて幕府を開いた人物はだれか。 |
1 源義家 3 源義朝 |
2 源頼義 4 源頼朝 |
源頼義は、鎌倉に石清水八幡宮の祭神を勧請して由比若宮を建てました。義家はその子。 2人とも鎌倉にゆかりのある人物です。 源義朝は鎌倉の扇ヶ谷(亀ヶ谷)に館を構えていました。 1159年(平治元年)の平治の乱で義朝が平清盛に敗れると、その子の源頼朝は伊豆の蛭ヶ小島に流されます。 伊豆で約20年を過ごした頼朝は、1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をして鎌倉に幕府を開きました。 |
鎌倉時代、将軍を補佐するために置かれた、御家人の最高位の役職を何というか。 |
1 別当 3 執権 |
2 管領 4 執事 |
鎌倉幕府において将軍を補佐する者を執権と呼んでいました。代々の執権には北条氏が就任しています。 |
和賀江嶋の築港を許可し、鎌倉と六浦の間に道を開くことを決定し、朝夷奈切通をつくらせた人物はだれか。 |
1 北条政子 3 北条義時 |
2 北条泰時 4 北条経時 |
和賀江嶋の築港と朝夷奈切通の掘削は、3代執権北条泰時の時代のものです。 |
和賀江嶋 |
朝夷奈切通 |
鎌倉幕府3代将軍源実朝の和歌を集めた家集を何というか。 |
1 『山家集』 2 『金槐和歌集』 3 『新古今和歌集』 4 『千載和歌集』 |
源実朝は『新古今和歌集』の撰者の一人藤原定家に師事し、『金槐和歌集』を編みました。 「金」は「鎌倉」の鎌の字の「かねへん」を表し、「槐」は「大臣」という意味があることから、鎌倉の右大臣(源実朝)の家集という意味になります。 |
最初の摂家将軍として、わずか2歳で鎌倉幕府第4代将軍に迎えられた人物はだれか。 |
1 九条兼実 3 九条頼嗣 |
2 九条頼経 4 九条良経 |
1219年(承久元年)、源実朝が暗殺されると、四代将軍には藤原(九条)頼経が迎えられました。 頼経とその子頼嗣の二代にわたって摂家将軍が迎えられますが、六代将軍からは親王将軍が迎えられています。 |
1335年(建武2)、北条高時の子である時行が鎌倉幕府復活を図って挙兵し、足利直義を破って一時的に鎌倉を支配下に置いたできごとを何というか。 |
1 中先代の乱 3 承久の乱 |
2 正中の変 4 霜月騒動 |
後醍醐天皇による建武の新政が開始された後、鎌倉は、足利尊氏の子義詮と弟直義が守っていました。 北条高時の遺児時行は、諏訪頼重に担がれて中先代の乱を起こします。 時行に鎌倉を占領された足利直義は、逃げる前に幽閉していた護良親王を殺害しています。 |
永享の乱で、将軍足利義教に討たれた鎌倉公方はだれか。 |
1 足利基氏 3 足利成氏 |
2 足利持氏 4 足利義久 |
1438年(永享10年)、鎌倉公方の足利持氏は、将軍足利義教に対して反乱を起こします(永享の乱)。 持氏は敗れ、永安寺で自刃し、嫡子義久は報国寺で自刃しました。 |
1880年(明治13)に、鎌倉は保養地として最適である「健康によい地」と紹介した人物はだれか。 |
1 長与専斎 2 エルウィン・ベルツ 3 ロベルト・コッホ 4 北里柴三郎 |
エルウィン・ベルツが結核の保養地として最適と紹介し、長与専斎は海水浴に適していると紹介しました。 ロベルト・コッホは、弟子の北里柴三郎とともに霊山山を訪れ、その記念碑が稲村ヶ崎に建てられています。 |
鎌倉の海岸沿いを走る湘南有料道路、現在の国道134号線が開通したのはいつか。 |
1 1889年(明治22) 2 1910年(明治43) 3 1930年(昭和5) 4 1956年(昭和31) |
1889年(明治22)には横須賀線が開通、1910年(明治43)には江ノ電が全線開通、1930年(昭和5)には市道大船西鎌倉線が開通しました。 湘南有料道路の開通は1956年(昭和31)。 |
鎌倉では世界遺産登録を目指してさまざまな取り組みが行われているが、道として世界遺産登録候補地に唯一含まれているものはどれか。 |
1 大町大路 3 若宮大路 |
2 小町大路 4 今小路 |
若宮大路 |
段葛 |
弓の名手で、保元の乱で捕われ、流された伊豆の大島から天照山(現在の光明寺裏山)に向かって射た矢が、材木座と逗子の境にある六角ノ井まで届いたという伝説が残る人物はだれか。 |
1 源頼光 3 源為朝 |
2 那須与一 4 源義経 |
那須与一も屋島の戦いで扇を射落としたことで知られていますが、六角ノ井の伝説に登場するのは源為朝。 源頼朝の叔父に当たります。 |
若宮大路の一の鳥居の付近に、その邸址の碑が立つのはだれか。 |
1 和田義盛 3 畠山重保 |
2 梶原景季 4 比企能本 |
一の鳥居の横には、由比ヶ浜で三浦義村に討たれた畠山重保の宝篋院塔が建てられています。 重保は、有力御家人畠山重忠の嫡男。北条時政の陰謀によって騙し討ちに遭いました(畠山重忠の乱)。 |
鎌倉時代には鶴岡八幡宮の東側の「筋違橋」から宝戒寺、本覚寺前を通り、材木座までの筋道とされ、現在は本覚寺門前にある夷堂橋より北の部分を指す大路を何というか。 |
1 小町大路 3 横大路 |
2 大町大路 4 二階堂大路 |
典型的な中世の山城で鎌倉にとって辺境の守りの拠点だったが、建武のころ、朝廷(後醍醐天皇)方の武将北畠顕家らによって落城したという城址はどこか。 |
1 住吉城址 3 玉縄城址 |
2 杉本城址 4 天神山城址 |
北畠顕家の鎌倉攻めで落城したのは杉本城。 杉本義宗によって築かれた城で杉本寺の背後にありました。 |
以前は建長寺門前にあったが、現在は歩道の敷石にその位置が示されているのみで、徳川光圀の『鎌倉日記』や「建長寺境内絵図」に描かれている泉は何か。 |
1 日蓮乞水 3 甘露水 |
2 金龍水 4 不老水 |
鎌倉五名水の一つで「金龍水」と呼ばれていましたが、道路の拡張工事でその姿を失ってしまいました。 |
現在、鎌倉市内で知られている「やぐら」の数は何基を超すといわれているか。 |
1 100 3 1000 |
2 500 4 5000 |
鎌倉の「やぐら」は、1000基を超すといわれています。 |
鎌倉の名の由来の一つとして、藤原鎌足が夢のお告げで護身用に持参した鎌(鎌槍)をある場所に埋めたためという伝説があるが、その場所はどこか。 |
1 松ヶ岡 3 二階堂 |
2 扇ヶ谷 4 西御門 |
藤原鎌足が大職冠という官位を授かり、鹿島神宮へ詣でた際に、持っていた鎌を鎌倉の松ヶ岡に埋めたので「鎌倉」と呼ばれるようになったという伝説があります。 松ヶ岡がどこなのか不明ですが、浄妙寺の鎌足稲荷社、鶴岡八幡宮の大臣山にその伝説が残されています。 |
鎌足稲荷社 (浄妙寺) |
大臣山 (鶴岡八幡宮) |
梶原景時が上総介広常を討った太刀の血のりを洗い流したという伝説がある梶原太刀洗水は、どの切通の岩肌から湧き出しているか。 |
1 名越切通 3 朝夷奈切通 |
2 極楽寺切通 4 釈迦堂切通 |
上総介広常の屋敷は、朝夷奈切通の入口付近にあったとされています。 梶原景時は、広常の屋敷に赴き、広常を暗殺したのだと伝えられています。 |
木曽義仲の命令で頼朝暗殺を図り失敗し幽閉されたが、娘の万寿姫のみごとな舞いの褒賞として救い出された母親をめぐる伝説が残されている史跡はどこか。 |
1 朱垂木やぐら 3 瓜ヶ谷やぐら |
2 明月院やぐら 4 唐糸やぐら |
室町時代から江戸時代に成立した御伽草子の「唐糸草子」に描かれている物語です。 |
日本で最初の「ナショナルトラスト運動」の舞台となった御谷にある史跡は何か。 |
1 十一人塚 2 文覚上人屋敷跡 3 二十五坊跡 4 法華堂跡 |
1964年(昭和39年)、鶴岡八幡宮裏山の開発を巡る緑地保全の運動を御谷騒動といいます。 鶴岡八幡宮の二十五坊跡は、ナショナルトラスト運動の発祥地となりました。 |
自然・景観の問題 |
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