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歴史・旧跡に関する記述について、最も適当なものを1〜4から選びなさい。 |
○8世紀初め、鎌倉郷は相模国の国司の支配下にあり、租税を徴収されていた。「鎌倉」の名が記された最も古い文献とされているのは何か。 |
1 万葉集 3 日本書紀 |
2 古事記 4 倭名類聚抄 |
日本最古の歴史書である古事記(712年編纂)に鎌倉が記されています(「足鏡別王は鎌倉之別の祖」と書かれています。)。 万葉集は現存する日本最古の歌集で750年以降の成立と考えられ、日本書紀は歴史書で720年の成立。 倭名類聚抄は平安時代の辞典で900年代の成立です。 |
○源頼家の外戚として権力を得たが、北条時政らに滅ぼされたのは何氏か。 |
1 比企氏 3 和田氏 |
2 三浦氏 4 安達氏 |
源頼家の乳母夫だった比企能員は、北条時政らとの権力争いから時政邸で暗殺され、妙本寺にあったとされる比企邸には、北条義時が攻め入り比企氏は滅亡しました(比企氏の乱)。 三浦氏は北条時頼に(宝治合戦)、和田氏は北条義時に(和田合戦)、安達氏は平頼綱に(霜月騒動)によって滅ぼされました。 畠山氏も北条時政らの策謀によって滅ぼされています(畠山重忠の乱)。 |
一幡袖塚 |
比企一族墓 |
○「出ていなば主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ春をわするな」という一首を詠んだ人物はだれか。 |
1 菅原道真 3 源頼家 |
2 藤原定家 4 源実朝 |
「こちふかば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春をわするな」と詠んだ菅原道真の歌と似ていますが、暗殺されることを予期していたかのような源実朝の詠んだ歌です。 実朝はこの歌を詠んだ後、右大臣拝賀式で甥の公暁によって暗殺されました。 |
○1232年(貞永元)に、北条泰時によって定められた法令で、源頼朝の先例や武家社会の慣習を基とした日本最初の武家法を何というか。 |
1 御成敗式目 3 武家諸法度 |
2 建武式目 4 貞観格式 |
「建武式目」は室町幕府、「武家諸法度」は江戸幕府が発布したもの。 「貞観格式」は律令の補助法令。 「御成敗式目」は、制定された年から「貞永式目」とも呼ばれています。 |
○鎌倉の経済を支える海上交易の拠点として、北条泰時によってつくられた現存する日本最古の築港遺跡を何というか。 |
1 信玄堤 3 片瀬東浜 |
2 江ノ島 4 和賀江嶋 |
勧進僧往阿弥陀仏の案を取り入れて完成させたのが和賀江嶋。 信玄堤は甲府にある武田信玄がつくった土手。 |
○宗尊親王を最初の親王将軍に擁立した人物はだれか。 |
1 北条時頼 3 北条時宗 |
2 北条泰時 4 北条義時 |
源氏の将軍が絶えた後、藤原(九条)頼経が迎えられましたが(摂家将軍)、北条経時によって将軍職を辞めさせられます。 その後、頼経の子頼嗣が将軍職を引き継ぎますが、北条時頼によって、頼経・頼嗣父子は謀反の疑いで鎌倉を追放されてしまいました。 その後迎えられたのが宗尊親王(親王将軍)です。 |
○1180年(治承4)の源頼政の挙兵から1266年(文永3)までを編年体で記した鎌倉幕府の記録を何というか。 |
1 平家物語 3 吾妻鏡 |
2 増鏡 4 大鏡 |
平家物語は平家の栄枯盛衰を書いた軍記物。 増鏡は大鏡とともに四鏡と呼ばれる歴史物語。 増鏡は南北朝、大鏡は平安時代に成立。 |
○初代に足利尊氏の子基氏がつき、関東八ヵ国に甲斐、伊豆を合せた東国十ヵ国を統治した職制を何というか。 |
1 鎌倉公方 3 堀越公方 |
2 古河公方 4 征夷大将軍 |
足利基氏は初代鎌倉公方。 五代足利成氏は、今川範忠に攻められ古河に逃れたことから古河公方と呼ばれ、将軍義政が鎌倉公方として派遣した足利政知は伊豆の堀越に留められたので堀越公方と呼ばれました。 |
○戦国時代、後北条氏支配下の鎌倉において活躍した、大町の八雲神社の氏子を中心とした商工民を何というか。 |
1 座 3 馬借 |
2 町衆 4 問丸 |
座は同業者組合、馬借は輸送業者、問丸は年貢米の仲介・運送業者。 |
○外国人を排斥する動きの激しかった幕末に、鎌倉でイギリス人が殺傷されたところはどこか。 |
1 下馬 3 稲村ヶ崎 |
2 腰越 4 大仏前 |
有名な生麦事件の後に起きた事件。 江ノ島・鎌倉見物にきたイギリス人2名を浪人が殺傷した事件は、下馬四ツ角付近で起きました。 |
○1936年(昭和11)に、久米正雄、大佛次郎、里見クなどの鎌倉在住の作家によって結成された会を何というか。 |
1 鎌倉商工会 3 鎌倉同人会 |
2 鎌倉風致保存会 4 鎌倉ペンクラブ |
久米正雄の呼びかけによって結成された会は、鎌倉ペンクラブです。 |
○鎌倉時代に「前浜」と呼ばれ、小笠懸、犬追物、流鏑馬などの武芸の修練場とされたのはどこか。 |
1 片瀬東浜 3 七里ヶ浜 |
2 由比ヶ浜 4 稲村ヶ崎 |
鶴岡八幡宮の一の鳥居の前は、「前浜」と呼ばれていました。 |
○県指定の史跡で、鎌倉のやぐら群のほぼすべての形式が見られるところはどこか。 |
1 百八やぐら 3 瓜ヶ谷やぐら |
2 明月院やぐら 4 日月やぐら |
明月院やぐらは上杉憲方の墓とされ鎌倉で最大。 瓜ヶ谷やぐらは葛原岡神社北側にある5穴からなるやぐら群。 日月やぐらは釈迦堂トンネル上尾根やぐら郡のなかの一つ。 百八やぐらは覚園寺後方にある鎌倉で最大規模のやぐら郡で、鎌倉のやぐらのほぼすべての形式をみることができます。 |
○1977年(昭和52年)に建物跡などが発見され、大仏切通の北に位置し、鎌倉防衛の要衝で鎌倉時代を代表する武家屋敷跡は何か。 |
1 長者屋敷跡 2 旧御用邸門 3 北条高時邸跡 4 北条氏常盤亭跡 |
鎌倉時代、北条氏の屋敷は、山ノ内・金沢・極楽寺といった要衝地に配置されました。 常盤一帯は北条一族が別邸を構えたところです。 |
○鎌倉の歌枕「星月夜」は、この谷の名である星月夜ヶ谷からきているといわれる。鎌倉十井のひとつ、星月ノ井はどこの切通の登り口にあるか。 |
1 大仏 3 極楽寺 |
2 朝夷奈 4 名越 |
鎌倉十井の一つ星ノ井(星月ノ井)は、成就院が管理する虚空蔵堂前にあって、昭和初期ころまでは、極楽寺切通を往来する旅人に水が売られていたらしいです。 |
○特にこの日に佐助の銭洗水で金銭を洗うと福利が増すといわれているのは何の日か。 |
1 酉の日 3 辰の日 |
2 寅の日 4 巳の日 |
銭洗弁財天宇賀福神社の銭洗水は、源頼朝が巳の年、巳の月、巳の日に夢のお告げによって発見した霊水です。 鎌倉五名水の一つ。 |
○鎌倉への出入り口は「鎌倉七口」と呼ばれて、室町時代中期の記録にも見える「京都七口」を模した鎌倉名数のひとつとされ、「鎌倉七切通」ともいう。鎌倉と金沢八景を結び、鎌倉の東側の守備を担ったと考えられ、当時の姿をよく伝えている切通はどれか。 |
1 名越切通 3 大仏切通 |
2 朝夷奈切通 4 極楽寺切通 |
名越切通は三浦、大仏切通は藤沢、極楽寺切通は京へ上るときの出口。 鎌倉と六浦を結ぶ朝夷奈切通は、塩の道とも呼ばれていました。 |
○鎌倉には、京の朱雀大路を模して造らせた基幹道路がある。源頼朝が妻政子の安産を祈願してその大路とともに「段葛」を造営させたといわれる大路はどこか。 |
1 小町大路 3 西大路 |
2 大町大路 4 若宮大路 |
小町大路は宝戒寺付近の筋違橋から材木座へと通じる大路。 大町大路は旧東海道で下馬から名越へと通ずる大路。 西大路は幕府西側を来迎寺へと通ずる大路。 若宮大路は、鶴岡八幡宮の参道で、源頼朝が北条政子の安産を祈願して造営したのだと伝えられています。 若宮大路中央の段葛は、日本に唯一残されている遺構。 |
若宮大路 |
段葛 |
○鶴岡八幡宮の北東の分かれ道から朝夷奈切峠を越えて金沢八景に至る街道を何というか。 |
1 上の道 3 下の道 |
2 中の道 4 六浦道 |
上の道は仮粧坂から、中の道は巨福呂坂から出て碓氷峠へと通ずる道。 下の道は途中まで中の道と同じで、その後は宇都宮方面へと行く道。 |
○今泉という地名は、ある僧侶が水に困っている村人を救おうと、村人とともに祈ると、岩肌から掘った二つ穴から水が湧き出したという言い伝えに由来している。この伝説の僧侶はだれか。 |
1 日蓮 3 空海 |
2 忍性 4 行基 |
仙人から不動明王を彫って祈るよういわれ、穴を掘ったのは弘法大師空海。 |
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