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歴史・旧跡に関する記述について、最も適当なものを1〜4から選びなさい。 |
3代執権北条泰時のころの鎌倉の四境のうち、東の境はどこか。 |
1 小坪 3 稲村ヶ崎 |
2 六浦 4 山内 |
四角四境祭(陰陽道に基づく除災の儀式)が行われた場所ということなのかと思います。 『吾妻鏡』によれば、1235年(嘉禎元年)、将軍が疱瘡にかかったため、巨福呂坂、小坪、六浦、片瀬を四境として儀式が行われているようです。 |
和田合戦において、従兄弟である和田義盛を裏切り、北条義時に味方した人物はだれか。 |
1 三浦義明 3 三浦泰村 |
2 三浦義村 4 三浦義澄 |
『古今著聞集』によれば、上席に着席した千葉胤綱に対し三浦義村が「下総の犬めは寝場所を知らぬな」とつぶやくと、胤綱は「三浦の犬は友を食らうぞ」とつぶやいたといいます。 |
源頼朝に所望され、静御前が舞を舞ったのは鶴岡八幡宮のどこと伝えられているか。 |
1 舞殿 3 若宮回廊 |
2 本殿 4 参道 |
吉野山で源義経と別れた静は、捕らえられて鎌倉に送られてきました。 源頼朝に所望されて舞を披露しますが、義経への思いを歌にします・・・。 静が舞を披露したのは、鶴岡八幡宮の若宮の回廊。 現在、その場所には舞殿が建てられています。 |
北条政子を感動させた静の舞〜梁塵を動かす歌と舞〜 母と子との悲しい運命〜源義経の子を産んだ静御前〜 |
金峯山寺 |
勝手神社 |
基壇上部に、十六羅漢の浮き彫りがあることから、別名「羅漢洞」とも呼ばれるやぐらは何か。 |
1 明月院やぐら 3 百八やぐら |
2 日月やぐら 4 唐糸やぐら |
明月院の開山堂横のやぐらは、上杉憲方のやぐらと伝えられ、鎌倉最大のやぐらといわれています。 釈迦如来、多宝如来、十六羅漢の浮き彫りがあります。 |
鎌倉防衛の要衝であったため、現在の北条氏常盤亭跡に別邸を構えたとされる人物はだれか。 |
1 北条経時 3 北条長時 |
2 北条重時 4 北条政村 |
北条氏常盤亭があった場所は、大仏切通が北に位置する鎌倉防衛の要衝でした。 |
「鎌倉に五名水あり」として、「鎌倉五名水」について記載された資料はどれか。 |
1 『新編鎌倉志』 2 『東関紀行』 3 『和名類聚抄』 4 『吾妻鏡』 |
『東関紀行』は鎌倉時代の紀行文。 『和名類聚抄』は平安時代の辞書。 『吾妻鏡』は鎌倉幕府の記録書です。 そして、『新編鎌倉志』は江戸時代に徳和光圀によって編纂されました。 鎌倉五名水をはじめ、鎌倉七口、鎌倉十井、鎌倉十橋などの名数が載せられた地誌です。 |
鎌倉五名水 |
新編鎌倉志 |
髪を「みずら」(古代人の髪形)に結った男が、舟に乗り、楯を持ち、弓を射る様子を描いた線刻画がるのはどの横穴墓か。 |
1 山崎横穴群 2 稲村ヶ崎姥ヶ谷 3 洗馬谷横穴群 4 笹目谷横穴群 |
室町時代の後半以降、鎌倉が東国の政治の中心としての役割を果たせなくなっていく直接の原因ともなったできごととして正しいのはどれか。 |
1 | 豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼし、徳川家康にその領地を与えたこと。 |
2 | 鎌倉公方であった足利成氏が今川氏に追放され、下総の古河に拠点を移したこと。 |
3 | 戦国大名の里見氏や上杉謙信たちが後北条氏(の一族)と戦ったこと。 |
4 | 新田義貞が鎌倉を攻略し、鎌倉幕府を滅ぼし、市街地を焼き払ったこと。 |
永享の乱で自刃した足利持氏の遺児成氏が鎌倉公方になると、関東管領には上杉憲忠が任じられました。 しかし、この2人は対立し、成氏が憲忠を暗殺してしまいます。 これによって関東地方は長い戦乱の世を迎えます(享徳の乱)。 |
廃寺跡について、次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 |
1 | 西御門の八雲神社付近にあった太平寺は、室町時代初期、足利基氏の未亡人清渓尼が中興して、鎌倉尼五山第1位となった。 |
2 | 雪ノ下にあった東勝寺では、新田義貞の鎌倉攻め責めの際、北条高時以下、北条勢総勢約870名が自害したとされる。 |
3 | 雪ノ下の大御堂にあった勝長寿院は、源頼朝が奥州の藤原一族や源義経の鎮魂、慰霊と、自らの権勢を示すことねらい建立したとされる。 |
4 | 大倉幕府跡の裏山にあった法華堂は、もとは源頼朝の持仏堂として、1189年(文治5)に聖観音を本尊として建てられた。 |
勝長寿院は、父義朝の菩提を弔うために建立された寺院です。 |
永福寺 太平寺 勝長寿院 法華堂 |
歴史・旧跡について関連のあることがらの組み合わせとして誤っているものを1〜4から選びなさい。 |
1 | 下馬は、鎌倉時代、鶴岡八幡宮に参拝するときに、貴人が神仏に敬意をはらってこの地で馬を下りることになっていたことが由来とされる。 |
2 | 坂ノ下は、鎌倉七口の1つである大仏切通の下にある地域であることが由来とされる。 |
3 | 大船は昔、粟船といい、粟を積んだ船が山のように連なって見えたことが由来とされる。 |
4 | 御成町は、現在の御成小学校から市役所のある場所に、明治時代、御用邸が建てられ、皇族方が御成りになったことが由来である。 |
坂ノ下は、大仏切通の下ではなく、極楽寺切通の下です。 |
歴史・旧跡に関する記述について、最も適当なものを1〜4から選びなさい。 |
人物と墓所の所在地 |
1 | 大江広元 −源頼朝墓の東側の山の中腹 |
2 | 梶原景時 −極楽寺坂 |
3 | 木曽義高 −常楽寺裏山 |
4 | 上杉憲方 −明月院やぐら |
極楽寺坂にあるのは伝上杉憲方墓。梶原景時の墓は深沢小学校裏手のやぐらです。 |
橋と関連人物 |
1 裁許橋−西行 2 針磨橋−我入道 3 乱橋−足利尊氏 4 歌ノ橋−渋川刑部六郎兼守 |
乱橋は、新田義貞の鎌倉攻めの際に、北条軍が乱れ始めた所といわれています。 |
歴史・旧跡について、次の説明文の[ ]に最も適当なものを1〜4から選びなさい。 |
北条時頼は[ @ ]により三浦一族を滅ぼし、北条氏の権力を強めた。それまでの摂家将軍を廃して、新たな将軍として皇族から、後嵯峨上皇の皇子[ A ]親王を迎えた。執権の補佐役として連署を復活し[ B ]を任命、ますます増える所領をめぐる御家人の訴訟を効率よく裁くため引付を設けるなど政治組織を整備した。また、禅の本格的修行場としての[ C ]を建立して、武家の気風にふさわしい禅宗の発展に尽くした。 時頼の廟所は[ D ]境内にある。 |
@ | |
1 承久の乱 3 宝治合戦 |
2 二月騒動 4 霜月騒動 |
承久の乱は義時、二月騒動は時宗、霜月騒動は貞時の時代に起こった事件です。 |
A | |
1 宗尊 3 久明 |
2 惟康 4 守邦 |
北条時頼は六代将軍に宗尊親王を迎えました。 七代は惟康、八代は久明、そして守邦は鎌倉幕府最後の将軍です。 鎌倉幕府の四代から九代までの将軍は、源頼朝の姉妹坊門姫と関係があります。 |
B | |
1 北条重時 3 北条政村 |
2 北条時房 4 北条義時 |
連署が置かれたのは三代執権北条泰時の時代で、北条時房が就任しました。しかし、時房の死後は後任者が決まらず、四代経時の時代まで政局が不安定な時代が続きました。 五代執権となった時頼は、宝治合戦後、北条重時を連署に迎えます。 北条政村は八代時宗の時代に連署を務めています。 北条義時は二代執権です。 |
C | |
1 浄妙寺 3 円覚寺 |
2 建長寺 4 浄智寺 |
浄妙寺は足利義兼、円覚寺は北条時宗、浄智寺は北条師時が建立しました。 |
D | |
1 建長寺 3 明月院 |
2 常楽寺 4 円覚寺 |
明月院は、北条時頼が建てた最明寺を前身として北条時宗が建てた禅興寺の支院でした。 |
稲村ヶ崎海浜公園には、[ @ ]の石碑のほか、弟子の[ A ]と鎌倉を訪れた、近代細菌学の祖といわれるドイツ人細菌学者ロベルト・コッホの記念碑や、[ B ]沖で起きた逗子開成中学生のボート転覆海難事故の慰霊碑がある。 |
@ | |
1 北条高時 3 足利尊氏 |
2 新田義貞 4 日蓮 |
A | |
1 長与専斎 3 西田幾多郎 |
2 森鴎外 4 北里柴三郎 |
B | |
1 片瀬東浜 3 七里ヶ浜 |
2 由比ヶ浜 4 稲村ヶ崎 |
自然・景観の問題 |
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