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歴史・旧跡に関する記述について、最も適当なものを1~4から選びなさい。 |
(1) | 鎌倉市の市章はゆかりの深い源氏の家紋に影響を受けているとされるが,源氏の家紋はどれか。 |
1 | 2 |
3 | 4 |
源氏の家紋はササリンドウといわれています。 鎌倉市の市章もササリンドウですが、出題された紋とは少し違うことをご存知でしょうか。 昔は同じだったようですが・・・。 古いマンホールの蓋などに描かれたササリンドウを見ればわかります。 「源氏の家紋であるササリンドウを市のマークとしたが、実はササリンドウは源氏の紋ではなかったので少し変えた」という説明をしている書籍もありました。 |
このページに現在の鎌倉市の市章を載せてあります。 |
参考までに「源頼朝会」の幟の紋は「鶴丸」。 鶴岡八幡宮で使われている紋ですが、頼朝も鶴丸を使っていたという説もあるようです。 |
(2) | 平安末期には鎌倉郡内に荘園が成立していたが,その頃の文書集『天養記』に名が見える荘園とは,次のどれか。 |
1 梶原荘 3 玉輪荘 |
2 山内荘 4 深沢荘 |
(3) | 『吾妻鏡』によると,源氏ゆかりの地鎌倉を根拠地とするように源頼朝に進言したとされる人物はだれか。 |
1 三浦義明 3 千葉常胤 |
2 上総広常 4 北条時政 |
1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、一時、箱根権現に身を寄せますが、8月28日、真鶴から船出して安房国へ渡ります。 参陣を命じられた千葉常胤は、9月9日、鎌倉を本拠とするよう進言したのだと伝えられています。 |
(4) | 『吾妻鏡』によると,源頼朝が鎌倉の地に新邸を造営しようとした際,土地が狭く造営を断念したとされる父源義朝の旧跡はどこか。 |
1 大町 3 佐助 |
2 扇ヶ谷 4 二階堂 |
1180年(治承4年)10月7日、鎌倉に入った源頼朝は、父義朝の館があったという亀ヶ谷(現在の扇ヶ谷の壽福寺付近)に御所を造営しようと考えますが、 思いのほか狭く、岡崎義実が建てたという義朝を祀る祠もあったことから、大倉の地とすることとしました。 |
壽福寺 |
大倉幕府跡 |
(5) | 戦国時代に,この寺の住持青岳尼を安房の大名里見義弘が連れ去ったために廃寺となったのはどこか。 |
1 勝長寿院 3 太平寺 |
2 東慶寺 4 高松寺 |
太平寺は鎌倉尼五山第一位の格式を誇りましたが、住職を失い、北条氏康によって廃寺とされています。 |
(6) | 鎌倉防衛の要衝であったため,現在の北条氏常盤亭跡に別邸を構えたとされる人物はだれか。 |
1 北条政村 3 北条長時 |
2 北条重時 4 北条経時 |
七代執権北条政村をはじめとする北条氏(政村流)は、大仏切通の北の要衝の地に別邸を構えました。 |
(7) | 「鎌倉に五名水あり」として,「鎌倉五名水」について記載がある史料はどれか。 |
1 『新編鎌倉志』 2 『海道記』 3 『倭名類聚抄』 4 『吾妻鏡』 |
鎌倉五名水は、江戸時代に鎌倉の名所として宣伝されました。 |
鎌倉五名水 |
新編鎌倉志 |
(8) | 次の橋のうち,鎌倉十橋に含まれないのはどれか。 |
1 華ノ橋 3 勝ノ橋 |
2 十王堂橋 4 乱橋 |
華の橋は報国寺門前に架けられた立派な橋ですが、鎌倉十橋には含まれていません。 |
(9) | 地名の由来について,次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 |
1 | 下馬は,鎌倉時代,鶴岡八幡宮に参拝するときに,貴人が神仏に敬意をはらってこの地 で馬を下りることになっていたことが由来とされる。 |
2 | 坂ノ下は,鎌倉七口の一つ大仏切通の下にあたる地域だったことが由来とされる。 |
3 | 大船は昔,粟船といい,辺りが入り江だったころ,粟を積んだ船が繋がれていたことが 由来とされる。 |
4 | 御成町は,現在の御成小学校から市役所のある場所に,明治時代,御用邸が建てられ, 皇族方が御成りになったことが由来である。 |
坂ノ下という地名は極楽寺坂(切通)の下であることから付けられました。 |
極楽寺切通 |
星ノ井通り |
(10) | 日蓮関連の史跡について,次の説明文のうちで内容に誤りを含むものはどれか。 |
1 | 日蓮が極楽寺の忍性と雨乞いを競った跡地といわれる,七里ヶ浜の「日蓮雨乞いの池」 は,池の周囲を覆っていた雑草などが取り除かれ,往時の姿が復元されつつある。 |
2 | 極楽寺から稲村ヶ崎に向かう途中にある「日蓮袈裟掛松」の傍らの石碑には,「南無妙 法蓮華経」の文字が記されている。 |
3 | 妙法寺前から旧名越切通に通じる道の途中にある「日蓮乞水」は,「鎌倉五名水」の一つとされている。 |
4 | 日蓮が辻説法を行ったという「日蓮上人辻説法跡」は小町大路にあり,現在,その跡地に並ぶ石碑と腰掛石は,明治時代に日蓮宗学者の田中智学が整備したものである。 |
「日蓮乞水」は、長勝寺の前から名越切通に通じる道沿いにあります。 |
歴史・旧跡について関連のあることがらの組み合わせとして誤っているものを1~4から選びなさい。 |
(11) | 城址と関連事項 |
1 | 住吉城址 |
・・・三浦道寸(義同)と北条早雲の合戦の舞台 |
2 | 玉縄城址 |
・・・北条氏綱が築いた堅固な城郭で,後北条氏にとって相模最大の拠点 |
3 | 天神山城址 |
・・・山崎に遺構と土塁が残る,玉縄城の出城と思われる中世の出城 |
4 | 杉本城址 |
・・・朝比奈方面の守りの拠点で,南朝方の北畠顕家らにより落城 |
玉縄城は三浦氏攻略のために、北条早雲が築いた山城。 |
住吉城址 |
玉縄城址 |
杉本城址 |
(12) | 有力御家人と終焉の地 |
1 | 梶原景時-駿河国清見関 |
2 | 比企能員-名越・北条時政邸 |
3 | 畠山重忠-武蔵国二俣川 |
4 | 和田義盛-七里ヶ浜 |
和田義盛の最期は由比ヶ浜。 |
歴史・旧跡について、次の説明文の[ ]に最も適当なものを1~4から選びなさい。 |
三代執権北条泰時は,政務について,重要政策を有力御家人などから構成される〔 (13) 〕 衆の合議によって決定することとし,武家最初の法令である〔 (14) 〕を制定した。また商業・交通について,〔 (15) 〕切通を開削して鎌倉と六浦を結ぶ通商路を整備したり, 勧進僧往阿弥陀仏が船着場としての築島を申請したのに応えて〔 (16) 〕の沿岸に和賀江嶋を築かせたりした。 |
(13) | |
1 引付 3 評定 |
2 連署 4 会合 |
(14) | |
1 御成敗式目 3 建武式目 |
2 徳政令 4 武家諸法度 |
北条泰時は、「連署」・「評定衆」の設置、武家の法典である「御成敗式目」(貞永式目)を制定し、本格的に北条執権体制の基礎を固めてた人物。 |
連署 評定衆 御成敗式目 |
(15) | |
1 極楽寺 3 大仏 |
2 朝夷奈 4 名越 |
(16) | |
1 七里ヶ浜 3 片瀬東浜 |
2 稲村ヶ崎 4 材木座 |
朝夷奈切通 |
和賀江嶋 |
泣塔は,鎌倉攻めの際,新田義貞軍と〔 (17) 〕が率いる北条勢との間で繰り広げられ た〔 (18) 〕古戦場の碑の近くに建つ〔 (19) 〕である。ある時,〔 (20) 〕に移されたところ, 毎晩,元の場所を恋しがるようにすすり泣く声がするので,元の場所に戻された。すると, たちまち泣き声は止んだという言い伝えがあり,こう呼ばれるようになった。 |
(17) | |
1 長崎高資 3 長崎円喜 |
2 金沢貞顕 4 赤橋守時 |
(18) | |
1 極楽寺坂 3 仮粧坂 |
2 洲崎 4 稲村ヶ崎 |
(19) | |
1 五輪塔 3 宝篋印塔 |
2 層塔 4 多宝塔 |
(20) | |
1 青蓮寺 3 泉光院 |
2 大慶寺 4 仏行寺 |
(17)・・・4 (18)・・・2 (19)・・・3 (20)・・・1 |
自然・景観の問題 |
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