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毎年4月13日、源頼朝の墓前では、頼朝の遺徳を偲ぶ「墓前祭」が執り行われます。 1180年(治承4年)、源氏再興の願いを込めて挙兵した頼朝は、石橋山の戦いで敗れはしたものの、海路安房に渡ると、清和源氏の嫡流として多くの武将に迎え入れられ、10月6日、大軍を率いて鎌倉に入りました。 鎌倉入りを果たした頼朝は、鶴岡八幡宮を再興して、大倉の地に御所を構えます。 12月12日、完成した御所には、300人を超す武将が参集したといいます。 その頼朝の御所が、のちに「鎌倉幕府」と呼ばれます(参考:大倉幕府跡)。 源頼朝墓は、大倉幕府のあった北側の山の中腹に、大倉幕府跡を見下ろす形で建てれられています。 現在の頼朝墓は、江戸時代に薩摩藩主の島津重豪が建てたもの。 島津氏は、頼朝の御落胤とされる忠久を祖とすると伝えられ、墓前祭には、島津家の方々も参列して執り行われます。 10:30から。 |
伝説によると、源頼朝の子を身籠った丹後局は、北条政子から逃れるため、本田次郎親経の手引きで摂津住吉に至った。 そこで産気づいた丹後局は、住吉明神の大石を抱いて男児を出産。 のちにそれを知った頼朝は、その子に薩摩・大隅二か国を与えた。 その子というのが島津氏の祖・忠久なのだという。 |
伊豆国にも落胤伝説。 平治の乱で敗れた源頼朝が伊豆国の蛭ヶ小島に流されると、京都にいた頼朝の乳母・比企尼は長女の丹後内侍とその夫安達盛長らとともに伊豆国の桑原郷に移り住んだのだという。 桑原郷の比企尼の屋敷に通っていたという頼朝。 高源寺で比企尼の娘と密会し、その娘が身籠ってしまう。 盛長は密かに自分の生地である伊予国へ移住させようとするが、途中の摂津国の住吉社で子を出産したのだとか・・・ |
頼朝公墓前祭は「鎌倉まつり」の協賛行事。 かつては、鎌倉まつりの最後を飾っていたようです。 |
「いざ鎌倉の武者行列」から始まった「鎌倉まつり」 |
源頼朝は、1198年(建久9年)12月27日、相模川の橋供養に出掛けます。 相模川に架けられた橋は、御家人稲毛重成が亡妻の供養のために造ったものでしたが、その供養の帰路に落馬し、それが原因で翌年1月13日に亡くなったと伝えられています(参考:源頼朝落馬の地)。 頼朝は、自らが建てた持仏堂に葬られました。 現在、頼朝の墓が建てられている場所にその持仏堂があったといわれ、後に法華堂と呼ばれています。 |
源頼朝墓の下にあるのは、頼朝を祀る白旗神社。 |
白旗神社では、頼朝の命日にあたる1月13日に例祭が行われます。 |
現在の墓塔は、江戸時代に薩摩藩主の島津重豪が建てたもので、島津氏の祖忠久は頼朝の子とも伝えられています。 |
鎌倉市西御門2丁目 鎌倉駅東口より徒歩15分 |
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