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歴史・旧跡に関する記述について、最も適当なものを1〜4から選びなさい。 |
(1) | 鎌倉幕府関係者が編纂したといわれる,1180年(治承4)4月9日から1266年(文永 3)に至る歴史書を何というか。 |
1 『今鏡』 3 『吾妻鏡』 |
2 『増鏡』 4 『大鏡』 |
『今鏡』は平安末期の歴史物語、『増鏡』は南北朝時代の歴史物語、『大鏡』は平安時代後期の歴史物語。 これらと鎌倉時代の『水鏡』は四鏡と呼ばれます。 |
(2) | 東大寺再興の勧進のため,陸奥に赴く途中,鎌倉で源頼朝に謁見した逸話が残る僧はだれか。 |
1 一遍 3 栄西 |
2 西行 4 親鸞 |
1186年(文治2年)、東大寺再建の勧進のため奥州へ赴く途中の西行が鎌倉に立ち寄ります。源頼朝は、西行に面会し、弓馬のことを聞き、翌年の放生会で流鏑馬を奉納したと伝えられています。 |
流鏑馬 |
裁許橋 |
東大寺 |
平泉 |
(3) | 源頼朝以来の先例や武家社会の慣習を基とした日本最初の武家成文法『御成敗式目(貞永式目)』を定めた人物はだれか。 |
1 北条泰時 3 北条経時 |
2 北条義時 4 北条時頼 |
「御成敗式目」は、1232年(貞永元年)に三代執権北条泰時によって制定された武家の法典です。 全51条からなるもので、51条という数は17の3倍で、聖徳太子の憲法17条に由来する数だといいます。 |
御成敗式目 足利尊氏の建武式目 |
(4) | 北条氏(得宗)の権力をさらに強固にするために,5代執権北条時頼が三浦泰村とその一族を滅ぼしたできごとを何というか。 |
1 霜月騒動 3 承久の乱 |
2 宝治合戦 4 弘安の役 |
「霜月騒動」は安達泰盛が平頼綱に滅ぼされた事件、「承久の乱」は後鳥羽上皇が北条義時追討を企てた事件、「弘安の役」は2回目の蒙古来襲。 |
(5) | 関東8か国に甲斐・伊豆を合わせた10か国を統治するために,鎌倉に置かれた室町幕府の機関を何というか。 |
1 鎌倉府 3 鎌倉奉行 |
2 関東管領 4 地方頭人 |
室町時代の鎌倉には、鎌倉府が置かれ、初代長官(鎌倉公方)には足利基氏が就任しています。 |
鎌倉公方 |
関東管領 |
(6) | 1674年(延宝2)に徳川光圀が鎌倉入りした際に宿舎として利用した寺院はどこか。 |
1 東慶寺 3 薬王寺 |
2 光触寺 4 英勝寺 |
このときの旅をまとめたものが『鎌倉日記』だといいます。 |
(7) | 明治時代に,鎌倉の海(由比ヶ浜)を「海水浴場として理想的な海である」と紹介した医師はだれか。 |
1 ロベルト・コッホ 2 北里柴三郎 3 長与専斎 4 エルウィン・ベルツ |
由比ヶ浜は、1884年(明治17年)、医学者長与専斎によって「海水浴に最適の地」とされて称されました。 |
長与専斎の碑 (高徳院) |
海水浴場 開場100年碑 |
(8) | 1939年(昭和14)に鎌倉市が誕生したのは,鎌倉町とどこが合併したためか。 |
1 腰越町 3 深沢村 |
2 大船町 4 小坂村 |
(9) | 日本最古の築港遺跡である和賀江嶋の和賀とはどこの古名といわれるか。 |
1 七里ヶ浜 3 稲村ヶ崎 |
2 腰越 4 材木座 |
(10) | 1910年(明治43),七里ヶ浜沖で起きた逗子開成中学の学生のボート転覆海難事故の慰霊碑があるのはどこか。 |
1 材木座海岸 3 由比ヶ浜海岸 |
2 稲村ヶ崎 4 腰越港 |
1910年(明治43年)1月23日、逗子開成中学の少年たちは、軍艦「松島」から払い下げられたカッターで江の島までの旅に出ます。 しかし、その帰路、行合橋(七里ヶ浜)を過ぎたあたりで転覆事故に遭ってしまいました。 翌日、横須賀軍港から派遣された掃海艇によって12名の遺体が発見されています。 その遺体の中には、中学生の兄が小学生の弟をしっかりと抱きかかえた姿もあったといいます。 |
(11) | 一般的なやぐらの形から珍しい形式のものまで,鎌倉にあるほぼすべてのやぐらの形式が見られるのはどこか。 |
1 瑞泉寺やぐら群 3 明月院やぐら |
2 瓜ヶ谷やぐら群 4 百八やぐら |
百八やぐらは、五輪塔・宝篋印塔・仏像が安置されているものから、梵字が刻まれたもの、仏像が刻まれたものなど、一般的なものから珍しい様式のものまで、あらゆる形式のやぐらがあるといわれています。 |
(12) | 源氏三代と尼将軍とも呼ばれた北条政子の時代に,幕府が置かれた場所とされる旧跡はどこか。 |
1 宇津宮辻子幕府跡 2 大倉幕府跡 3 若宮大路幕府跡 4 由比若宮幕府跡 |
1180年(治承4年)10月、鎌倉入りを果たした源頼朝は、大倉の地に御所を構えます。 のちに宇津宮辻子に移るまでの45年間、武家政治の中心となりました。 |
(13) | 大倉幕府跡の裏山にあった持仏堂に葬られ,江戸時代に造られた墓所が現在も残る人物はだれか。 |
1 大江広元 3 源頼朝 |
2 北条政子 4 足利尊氏 |
1189年(文治5年)、源頼朝は、御所の裏山に奥州征伐の祈願所を設けます。 これが頼朝の持仏堂で伊豆山権現の専光房良暹に命じて造らせました。 良暹は石橋山の戦いで頼朝を助けた梶原景時の兄という説が。 本尊には、京都の清水寺から下された「二寸銀の正(聖)観音像」が置かれたのだといいます。 持仏堂は、頼朝が葬られた後は法華堂と呼ばれました。 |
(14) | 関東大震災で御用邸が倒壊するまで,その入口にあった門はどこに残されているか。 |
1 御成中学校 2 御成通り(鎌倉銀座) 3 御成小学校 4 鎌倉市役所 |
(15) | 鶴岡八幡宮が明治初年まで鶴岡八幡宮寺であったことを示す旧跡はどこか。 |
1 法華堂跡 3 二十五坊跡 |
2 永福寺跡 4 太平寺跡 |
鶴岡八幡宮裏の「御谷」(おやつ)と呼ばれている所には、鶴岡八幡宮寺供僧の住坊(二十五坊)がありました。 1180年(治承4年)、源頼朝は、上総国に流されていた阿闍梨定兼を鎌倉に呼び、供僧職に任じます。 それが二十五坊のはじまりなのだとか。 1182年(寿永元年)には、二十五坊の初代別当(長官)に園城寺の円暁が任命されています。 |
(16) | 大仏切通の北に位置し,鎌倉防衛の要衝で鎌倉時代を代表する武家屋敷跡はどこか。 |
1 北条高時邸跡 2 東勝寺跡 3 長者屋敷跡 4 北条氏常盤亭跡 |
第七代執権北条政村をはじめとする北条氏(政村流)は、鎌倉の防衛の要衝である大仏切通の北の常盤に別邸を構えました。 |
北条氏常盤亭跡 |
大仏切通 |
(17) | 針磨橋から稲村ヶ崎に向かう途中にある日蓮ゆかりの松の傍らに建つ石碑には何と記されているか。 |
1 日蓮袈裟掛松 2 日蓮上人ゆかりの松 3 南無妙法蓮華経 4 立正安国 |
1271年(文永8年)9月12日、捕らえられた日蓮が龍ノ口刑場へと引き連れられる途中で袈裟を掛けたといわれる松の碑。 |
(18) | 鎌倉十井のうち,極楽寺切通の登り口にあるものはどこか。 |
1 鉄ノ井 3 星ノ井 |
2 泉ノ井 4 扇ノ井 |
「星ノ井」は、鎌倉江ノ島街道の極楽寺切通(極楽寺坂)の下にあるということで、明治時代には、井戸付近に茶店ができて賑わっていたといいます。 |
(19) | 鎌倉十橋のうち,問注所が近くにあったことが名前の由来になっているものはどこか。 |
1 針磨橋 3 筋違橋 |
2 勝ノ橋 4 裁許橋 |
鎌倉時代、裁許橋の近くには問注所があって、そこでの裁判の結果、無罪放免となった者が渡った橋であることからこの名があるのだとか。 |
問注所跡 |
鎌倉十橋 |
(20) | 鎌倉と金沢八景を結び,鎌倉の東側の守備を担ったと考えられる切通はどこか。 |
1 釈迦堂切通 3 極楽寺切通 |
2 朝夷奈切通 4 名越切通 |
六浦からの塩がこの道を通って鎌倉に運ばれたことから「塩の道」とも呼ばれていました。 |
鎌倉七口 |
鎌倉の古道 |
自然・景観の問題 |
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