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歴史・旧跡に関する記述について、最も適当なものを1〜4から選びなさい。 |
『吾妻鏡』によれば、要害にして源氏ゆかりの地鎌倉を根拠地とするように源頼朝に進言した人物はだれか。 |
1 北条時政 3 三浦義澄 |
2 北条政子 4 千葉常胤 |
石橋山の戦いに敗れ、房総半島に渡った源頼朝は、千葉常胤や上総介広常らを従えて鎌倉を目指します。 頼朝に鎌倉入りを勧めたのは千葉常胤だと『吾妻鏡』は伝えています。 |
『吾妻鏡」によれば、源頼朝が鎌倉の地に新邸を造営しようとした際、土地が狭く造営を断念したとされる父源義朝の旧蹟はどこか。 |
1 大町 3 佐助 |
2 扇ガ谷 4 二階堂 |
源義朝は、亀ヶ谷(扇ヶ谷)の「壽福寺」付近に屋敷を構えたとされています。 源頼朝は、当初この場所に幕府(御所)を置こうと考えましたが、土地が狭く、亡き父の御堂(岡崎義実による造立)もあったことから、大倉の地を選んだのだと伝えられています。 |
平安時代の書物『倭名類類聚抄』に書かれている鎌倉郡に含まれる七郷とは、沼浜・鎌倉・埼立・荏草・尺度・大島とあと一つはどこか。 |
1 佐助 3 梶原 |
2 常盤 4 長谷 |
『倭名類類聚抄』というのは、平安時代の辞書で、昨年の試験にも出題されました。 |
「鎌倉世界遺産登録推進協議会」が設立され、鎌倉を世界遺産に登録するための試みが本格的に始まったのはいつか。 |
1 1991年(平成3) 2 1996年(平成8) 3 2001年(平成13) 4 2006年(平成18) |
稲村ヶ崎とその近辺にないものはどれか。 |
1 | 古都保存法制定20周年とラングドン・ウォーナーの記念碑 |
2 | ロベルト・コッホ博士の霊山山登頂の記念碑 |
3 | 七里ヶ浜ボート転覆海難事故慰霊碑 |
4 | 新田義貞の石碑 |
京都や鎌倉の街を第二次世界大戦から救ったといわれるラングドン・ウォーナーの記念碑は、鎌倉駅西口のとんがり帽子の時計台横に建てられています。 |
次の橋のうち、鎌倉十橋に含まれないのはどれか。 |
1 華ノ橋 3 勝ノ橋 |
2 歌ノ橋 4 乱橋 |
華ノ橋は、報国寺の入り口にあって目立ちますが、鎌倉十橋には含まれません。 |
公文所の初代別当であり、源頼朝の信任が厚かった大江広元のものとされる墓は二か所あるが、その正しい組み合わせはどれか。 |
1 二階堂・浄明寺 2 二階堂・十二所 3 西御門・浄明寺 4 西御門・十二所 |
大江広元邸は、十二所にあったといわれています。 明王院裏山には、大江広元の墓と伝わる五層塔があります。 そしてもう一つは、源頼朝墓の東の山裾に三つの「やぐら」の中央が広元の墓といわれています。 |
大江広元墓 (西御門) |
伝大江広元墓 (十二所) |
「唐糸やぐら」について、次の説明文で内容が正しいものはどれか。 |
1 | 新田義貞の鎌倉攻めで滅んだ北条一族の屍を埋葬したとされる。 |
2 | 十六羅漢の浮き彫りもあり、このやぐらが「羅漢洞」といわれるゆえんとなっている。 |
3 | このやぐら群では鎌倉にあるほぼすべてのやぐら形式がみられる。 |
4 | 室町から江戸初期に作られた短編物語である「御伽草子」にゆかりのあるやぐらである。 |
1は「腹切りやぐら」、2は「明月院やぐら」、3は「百八やぐら」を説明しているものと思われます。 「唐糸やぐら」は、御伽草子の『唐糸草子』ゆかりのやぐらです。 |
北条時頼について、次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 |
1 | 母の松下禅尼は、障子の破れを自ら繕ってみせて、子の時頼に質素倹約の大切さを教えた。 |
2 | 1249年(建長元)、領地をめぐる訴訟が相次ぎ、その審理の能率化・簡素化するため引付を設置した。 |
3 | 晩年は出家し、全国を廻り、世情を視察したという伝説があり、後に、その伝説から謡曲「鉢の木」がつくられた。 |
4 | 1252(建長4)、皇子を将軍に迎えようとしてかなえられず、やむなく京の摂関家から藤原(九条)頼経を将軍に迎えた。 |
北条時頼は、兄経時の後を受けて五代執権の座に就きます。 1246年(寛元4年)の宮騒動によって九条頼経が京都に送還され、1251年(建長3年)には、頼経の後に将軍に就いていた子の頼嗣が廃され、京都に送還されています。 そして1252年(建長4年)、後嵯峨上皇の皇子宗尊親王が将軍に迎えられ、以後は親王が将軍の座に就くこととなります(親王将軍)。 |
母松下禅尼の教え「質素倹約」 引付の設置 北条時頼廻国伝説 親王将軍 |
次の文のうち、誤りを含むものはどれか。 |
1 | 源頼義は前九年の役の戦勝を祈願した、京都の石清水八幡の祭神を勧請し、由比若宮を建立した。 |
2 | 源頼朝が、由比若宮を移築して、鶴岡八幡宮を造営するとともに、参道としての若宮大路や段葛を整備した。 |
3 | 源頼朝は、父義朝の供養のため永福寺を創建し、奈良から仏師成朝を招いて、黄金の阿弥陀如来像を造らせて安置し、盛大な儀式を行ったとされる。 |
4 | 源頼朝は、奥州で見た中尊寺や毛越寺の庭園の壮麗な美しさに感銘を受け、それらを模して、永福寺を建立した。 |
源頼朝が父義朝の供養のために建立したのは、勝長寿院。 |
由比若宮 |
鶴岡八幡宮 |
勝長寿院跡 |
永福寺跡 |
歴史・旧跡について関連のあることがらの組み合わせとして誤っているものを1〜4から選びなさい。 |
やぐらと寺社 |
1 朱垂木やぐら−建長寺 2 多宝寺址やぐら群−圓應寺 3 瓜ヶ谷やぐら群−葛原岡神社 4 百八やぐら−覚園寺 |
多宝寺址やぐら群は、浄光明寺の東の多宝ヶ寺谷にあります。 |
地蔵とその所在地 |
1 とげぬき地蔵−多聞院 2 矢拾地蔵−浄妙寺 3 身代わり地蔵−延命寺 4 貝吹地蔵−天園 |
矢拾地蔵は、浄光明寺にあります。 |
鎌倉二十四地蔵 貝吹地蔵 |
歴史・旧跡について、次の説明文の[ ]に最も適当なものを1〜4から選びなさい。 |
金沢街道は、「塩の道」として知られ、[ @ ]切通を経由して[ A ]港から鎌倉に塩を始めとして様々な物資が運ばれた通商路であった。 [ @ ]切通は、[ A ]口ともいわれ、初代侍所別当である和田義盛の子の三郎義秀が一夜で切り開いたという伝説が残るが、「吾妻鏡」では、執権[ B ]が工事の陣頭指揮を執ったと記されている。当時の名残を伝えるものとして[ C ]には、塩嘗地蔵が祀られている。 |
@ | |
1 名越 3 大仏 |
2 朝夷奈 4 極楽寺 |
塩の道として知られる切通は、朝夷奈切通。 |
A | |
1 小坪 3 六浦 |
2 腰越(小動) 4 江ノ島 |
金沢街道は「六浦路」とも呼ばれ、鎌倉と六浦津を結ぶ道でした。 |
B | |
1 北条時政 3 北条泰時 |
2 北条義時 4 北条経時 |
1241年(仁治2年)、前年からの計画によって、朝夷奈切通が開削されました。指揮を執ったのは執権北条泰時です。 |
C | |
1 明王院 3 浄妙寺 |
2 報国寺 4 光触寺 |
朝夷奈切通が重要な塩の道であったことを示すものとして、光触寺には「塩嘗地蔵」の伝説が残されています。 |
鎌倉十井の一つ[ @ ]には、次のような伝説がある。弓の名手として知られる[ A ]が、[ B ]で敗れて配流された伊豆の大島から鎌倉の光明寺の裏山にある[ C ]めがけて矢を放ったところ、この井戸に落ちたという。 |
@ | |
1 扇ノ井 3 星月夜ノ井 |
2 六角ノ井 4 鉄ノ井 |
A | |
1 俵藤太 3 源為朝 |
2 那須与一 4 平将門 |
源頼朝の叔父にあたる源為朝の伝説。 鎌倉十井の一つ六角ノ井には、為朝の放った矢の鏃が残されているのだといいます。 |
B | |
1 承久の乱 3 平将門の乱 |
2 平治の乱 4 保元の乱 |
C | |
1 天照山 3 天台山 |
2 鷲峰山 4 六国見山 |
源為朝は、保元の乱で、兄源義朝と平清盛の軍に敗れ、伊豆の大島に流されました。 光明寺の裏山といえば、天照山。 |
自然・景観の問題 |
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