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☆後鳥羽院の恨み☆ |
1239年、鎌倉の街の方々で喧嘩や争いごとが起き、特に5月25日には大騒動が起きた。 承久の乱で敗れ、隠岐に流されていた後鳥羽院が、この年の2月22日に崩御していることから、院の恨みが原因だろうということで、神社を建て霊を祀った。 その神社が今宮(新宮)。 |
源実朝の暗殺と倒幕を企てた後鳥羽上皇〜承久の乱〜(okadoのブログ) |
☆怪力「畠山重忠」☆ |
畠山重忠は、源頼朝の挙兵時こそ平家方についたものの、鎌倉入りの際には頼朝に従い、源義経とともに平家滅亡に尽力した。 宇治川の合戦では、おぼれかけた大串重親を岸にほうり投げたといい、一ノ谷の合戦の「ひよどり越え」では、愛馬を背負っておりたという伝説が残る。 永福寺建立の際には、力士数十人分の材木を運び、大きな石を担いで庭の置石にすえるなど力自慢を発揮した。 |
☆青梅聖天☆ |
鎌倉七口「巨福呂坂」の鶴岡八幡宮側の入り口が青梅聖天。 病気の将軍が季節はずれの「青梅を食べたい」というので、家臣が社で祈願すると梅の木に実がついたという。 |
☆鉄観音像☆ |
新清水寺が焼け落ちたとき、突如強い光が発せられ、巽の方角に飛び去っていったという。 翌日、村人が火災の跡片づけをすると焼けた観音様の胴体はあったが首がみつからなかった。 人々はあの光が観音様だったと噂したという。 数年が経ち、雪ノ下の井戸が、目を洗えば治り、常用すれば風邪をひかず、胃腸病や傷も治るという評判になった。 そのうち、観音様のお首が井戸の中にあるに違いないという話になり、井戸替えのときに井の底を掘ると観音様のお首が現れた。 お首は観音堂に安置され、井戸は「鉄ノ井」と呼ばれるようになり、参詣者が絶えなかったという。 |
☆如意輪観音☆ |
ある日、由比の長者(染屋時忠)の娘が遊んでいた浜で大鷲にさらわれ、その後死体となって発見された。 嘆き悲しんだ長者は、供養にと娘の骨を如意輪観音の胎内に納めたという。 今もその遺骨は寺に残っているらしい。 染屋時忠の娘に関する伝説は、来迎寺 魔の淵のお地蔵さま 辻の薬師堂 妙法寺 六国見山 多聞院 塔ノ辻にも残されている。 |
☆渋川兼守☆ 〜鎌倉十橋「歌ノ橋」〜 |
謀反の罪(和田合戦)で捕らえられた兼守は、無実の罪を晴らすため、十首の和歌を荏柄天神社に奉納した。 するとその和歌を見て感心した三代将軍源実朝は、罪を許して釈放したという。 兼守がそのお礼にと架けた橋が鎌倉十橋の一つ「歌ノ橋」。 |
☆荏柄天神社縁起☆ |
荏草郷といわれた土地に、にわかにかき曇った天から天神画像が降ってきた。 神験を恐れた里の人々は、その場所に社殿を建て、その画像を祀ったと伝えられる。 |
☆魔の淵のお地蔵さま!☆ |
岐れ道の交差点を鎌倉宮に向けて曲がると、右側にお地蔵さまが置かれている。 横を流れる川は昔、「魔の淵」と呼ばれ青黒い水が流れており、多くの人がここに住む魔物の餌食になったため、杉本寺の住職の発願でここにお地蔵さまを置いたのだという。 一説には、染屋時忠の娘が鷲にさらわれたとき、その血がしたたり落ちていた場所ともいわれている。 |
☆覚園寺の戌神将☆ |
二代執権北条義時は、鶴岡八幡宮で行なわれた三代将軍源実朝の右大臣拝賀式に剣持ち役として参加する予定であったが、夢の中に白い犬が現れ、参加を取りやめるように告げたという。 拝賀式当日、気にしながら式に向うと、夢と同じ白い犬が現れた。 気分を悪くしや義時は式を欠席。 式後、実朝は甥の公暁によって暗殺され、義時の代役も一緒に殺されてしまった。 義時のもとに現れた白い犬は、覚園寺十二神将のうちの「戌神将」の化身といわれている。 参考:源実朝の暗殺(源氏の滅亡) 実朝の暗殺 |
☆松源寺の怪談☆ |
ある晩、飴屋に水飴を1文買いにきた女がいた。 次の晩も1文買っていった。 女が買いにきてから6日目の晩に「明日からもう参りません」といって帰って行ったので、気になった亭主があとを追いかけたが松源寺の墓場で見失ってしまった。 すると、どこからか赤ん坊の泣き声がするので、墓場の中に入って行くと、桶のなかに女の死骸と赤ん坊がいたということである。 臨月の女が死んで葬られたのだが、赤ん坊が生まれたので、乳の代わりに水飴をなめさせていたのだろう。 水飴を買った銭は、六道銭として入れられた銭を使ったに違いないということで人々はうわさしたという。 松源寺の墓は、廃寺となってから壽福寺に移されたという。 |
松源寺は、窟堂の東にあったといわれている。 |
☆大鳥居と弁財天のお告げ☆ |
鶴岡八幡宮大鳥居は、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の夫人崇源院の願いで、木造の鳥居から石造の鳥居に造り替えられた。 崇源院は、鶴岡八幡宮の弁財天を信仰し、祈願をして三代将軍となる家光を生んだといわれ、自分の代わりに家光の乳母である春日局を度々参拝させたといわれている。 そんな崇源院の夢の中に弁財天が現れ、「木造の鳥居を石造とするように」というお告げがあった。 そして使用する石は「備前国ある」ということだったようである。 しかし、大工事のうえ、遠国から石を運ばなければならなかったことから、四代家綱の代になって完成したのだという。 |
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