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多くの文学者たちが鎌倉の寺院と関りをもち、この世に多くの作品を残している。 |
泉鏡花 |
明治24年、妙長寺(材木座)でひと夏を過ごし、そのときのことを「みだれ橋」(のちに「星あかり」と改題)に書いている。 |
島崎藤村 |
明治26年、恋の悩みを抱えて円覚寺塔頭帰源院に参禅。 のちに「春」に書いた。 |
夏目漱石 |
明治27年、神経を病み、菅虎雄のすすめで円覚寺塔頭帰源院に止宿し、釈宗演に参禅した。 15年後、その体験を「門」に書いている。 帰源院には、「佛性は白き桔梗にこそあらめ」と彫られた漱石の句碑が建てられている。 |
葛西善蔵 |
大正8年に建長寺塔頭宝珠院に移転した。茶屋「招寿軒」の娘ハナの世話を受け、過ごした日々を『おせい』(ハナがモデル)などに書いた。 建長寺塔頭回春院に墓がある。 |
作家葛西善蔵と鎌倉(okadoのブログ) |
有島武郎 |
大正8年に円覚寺塔頭松嶺院で過ごす。「或る女のグリンプス」(のちに「或る女」と改題)の後編を書いた。 弟に有島生馬、里見クがいる。 |
林不忘 (長谷川海太郎) |
大正15年、材木座の向福寺で新婚生活を送る。 その後、鎌倉を転々として、『丹下左膳』や『新巌窟王』を書いた。 妙本寺の祖師堂横に墓がある。 |
中原中也 |
小林秀雄と交流。妙本寺境内のカイドウの木の下で、共通の女性長谷川泰子について話したことが、小林秀雄によって「中原中也の思い出」として書かれた。その後二人は八幡宮の茶屋でビールを飲んだという。 最晩年は、壽福寺境内の借家に住んだ。 |
与謝野晶子 |
高徳院(鎌倉大仏)の観月堂のかたわらに「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」の歌碑が建てられている。 |
川端康成 |
『千羽鶴』に円覚寺塔頭佛日庵を登場させている。『山の音』は長谷を舞台としたもの。 (参考:川端康成記念会) |
高浜虚子 |
正岡子規に師事し、俳誌『ほととぎす』に参加。御成小学校正門(旧御用邸門)の門標は、虚子が筆をとった。 晩年を鎌倉(由比ヶ浜)で過ごし、長谷寺に句碑が建てられている。 壽福寺に墓がある。 |
御用邸門 |
句碑 |
久米正雄 |
昭和9年から始まった鎌倉カーニバルの開催に尽力し、昭和11年には、鎌倉ペンクラブを結成して初代会長を勤めた。 第二次世界大戦末期の昭和20年には、川端康成らとともに貸本屋「鎌倉文庫」を設立した。 長谷寺に胸像が建てられている。 |
大佛次郎 |
『帰郷』には、円覚寺塔頭佛日庵のハクモクレンが描かれている。 二十五坊跡をめぐる緑地開発反対運動に参加(御谷騒動)。 久米正雄とともに、昭和9年には鎌倉カーニバルを開催、昭和11年には鎌倉ペンクラブを結成した。 『鞍馬天狗』など多くの作品をのこしている。 |
山崎方代 |
晩年を鎌倉で過ごした放浪の歌人。瑞泉寺に歌碑が建てられている。 |
鎌倉文学館では、鎌倉ゆかりの文学者の直筆原稿・手紙・愛用品などが展示されている。 |
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