鎌倉手帳(寺社散策)

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妙 長 寺
=伊豆法難=

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鎌倉・妙長寺


 妙長寺(日蓮宗)は、日蓮の伊豆流罪の際(伊豆法難)、日蓮の命を救った漁師「舟守弥三郎」の子(日実)が創建した寺。

 一説には弥三郎本人だともいう。

 1891年(明治24年)には、作家・泉鏡花が仮寓し、「みだれ橋」(のちに「星あかり」に改題)を著した。


開山 日実
開基 日実
本尊 三宝祖師


リンクボタン鎌倉の日蓮宗の寺










日蓮と舟守弥三郎

 1261年(弘長元年)、伊豆流罪となった日蓮は、材木座海岸から船で護送されるが、伊東沖の「まないた岩」と呼ばれる小さな岩に降ろされてしまう(伊豆法難)。

 それを助け、匿ったのが漁師の舟守弥三郎であったと伝えられている。





鱗供養塔
鱗供養塔

鎌倉、逗子、三崎の漁師や魚商によって建立された。





法難御用船
法難御用船
(6分の1模型)


伊豆法難供養塔
伊豆法難記念塔





 妙長寺は、1299年(正安元年)の創建で、もとは材木座海岸に近い沼ヶ浦というところにあった。

 しかし、1681年(天和元年)の津波で堂宇が倒潰したので現在地に移った。

 沼ヶ浦は、伊豆法難の際に日蓮が船出した地であると伝えられている。

 下の写真は、材木座海岸の豆腐川橋。

 日蓮は豆腐川の河口から船出したと伝えられている。



豆腐川橋
リンクボタン材木座海岸


リンクボタン伊豆法難





泉鏡花

 泉鏡花は明治24年、ひと夏を妙長寺で過した。その時のことを書いたのが「みだれ橋」(のちに「星あかり」と改題)。
 妙長寺で過したのち尾崎紅葉に弟子入りした。


 もとより何故といふ理はないので、墓石の倒れたのを引摺寄せて、二ツばかり重かさねて臺にした。

 其の上に乘つて、雨戸の引合せの上の方を、ガタ/\動かして見たが、開きさうにもない。

 雨戸の中は、相州西鎌倉亂橋の妙長寺といふ、法華宗の寺の、本堂に隣つた八疊の、横に長い置床の附いた座敷で、向つて左手に、葛籠、革鞄などを置いた際に、山科といふ醫學生が、四六の借蚊帳を釣つて寢て居るのである。



鎌倉十橋・乱橋
リンクボタン鎌倉十橋「乱橋」

 稲村ヶ崎を突破した新田義貞が鎌倉に攻め入ったときに、北条軍が乱れ始めた場所であることから「乱橋」と呼ばれるようになったといわれる。

 五所神社に乱橋の手摺石が残っている。








鎌倉・妙長寺
妙長寺

鎌倉市材木座2−7−41
0467(22)3572

鎌倉駅東口から徒歩25分



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