|
私小説家葛西善蔵は、1919年(大正8年)、実家青森に妻子を残し、静養をかねて建長寺の塔頭宝珠院に移ってきた。 宝珠院の庫裡を借りて、食事や酒は茶店招寿軒に頼んだ。運んでくれたのが招寿軒の娘ハナ(浅見ハナ)で、のちに同棲している。 このころの半僧坊への参道には、多くの茶店が並び、○○講の旗が軒先に立てられていたという。 招寿軒は、半僧坊参道が回春院への道と河村瑞賢墓への道とに分かれる辺りにあって、1965年(昭和40年)に火災によって焼失したが、再建された建物が残されている。 |
葛西善蔵の作品は、自らが経験したことを書いた「私小説」で、持病である喘息と結核の苦しみを酒で紛らわしながら、また、追いつめられた生活のなかで書かれたもので、「苛烈の文学」とも呼ばれた。 |
葛西善蔵の作品の中で、ハナは「おせい」という名で登場している。 『暗い部屋にて』では、「おせいは二十で、背丈の低い、肥えた、頬の赤いまったくの田舎娘だ。・・・三度々々S院の石段を登って来て私のところへご飯を運んでいるのだ」と書かれている。 |
1923年(大正12年)、関東大震災によって宝珠院が倒壊すると、善蔵は、招寿軒に借金を残したまま鎌倉を離れ東京に移った。 ハナは、借金を返してもらうために上京するが、そのまま善蔵と同棲生活を始める。 |
葛西善蔵は、67篇の小説をのこし、1928年(昭和3年)、42歳で亡くなった。 作品のうち27篇が宝珠院で書かれたもの。 1981年(昭和56年)、弘前市にある菩提寺徳増寺の墓所から分骨され、回春院の墓地に善蔵の墓が建立された。 酒の字が入るところが善蔵らしいのかもしれない。 |
酒の字が入るところが善蔵らしいのかもしれない。 |
作家葛西善蔵と鎌倉(okadoのブログ) |
招寿軒は、今は営業されていない。 善蔵に尽くした浅見ハナは1992年(平成4年)に亡くなっている。 |
建長寺は、五代執権北条時頼が宋の蘭渓道隆を招いて開いた日本で初めての「禅専門道場」。 臨済宗建長寺派大本山。 鎌倉五山の第一位。 |
鎌倉市山ノ内8 0467(22)0981 JR北鎌倉駅から徒歩15分 |
大きい地図を見るには・・・ 右上のフルスクリーンをクリック。 |
|