|
江ノ電七里ヶ浜の駅から、海と反対方向に進むと、雨乞い伝説の残る田辺ヶ池がある。 大干ばつに見舞われた1271年(文永8年)、執権北条時宗は、極楽寺の忍性に雨乞いの祈祷を命じるが、半月ほどしてもその効果はなかった。 代わって日蓮が田辺ヶ淵で法華経を唱えると、数日間、大雨が降り続いたという。 明治の末、江戸講中が建てた「日蓮大菩薩祈雨之旧跡地」と記された石塔が発見され、現在、その場所には、日蓮聖人像と霊光寺が建てられている。 日蓮像の辺りが祈祷の場所と考えられている。 |
日蓮の『立正安国論』を北条時頼に渡したとされる宿谷光則は、日蓮が捕えられ、処刑されることになったとき、弟子の日朗を監視する任に就いた。 その後、日蓮は処刑されることなく、佐渡流罪となるが、弟子の身を案じる日蓮に心を打たれた光則は、日蓮に帰依して、1274年(文永11年)、自邸を寺とした。 それが現在の光則寺。 裏山には、日朗が幽閉された土牢が残され、傍らには、日蓮が日朗に送ったとされる「土牢御書」の石碑が建てられている。 |
江間光時(北条義時の孫)の家臣であった四条金吾は、龍ノ口法難の折、殉死覚悟で処刑場に駆けつけたという。 収玄寺は、熱心な日蓮信者であった金吾邸の跡に建てられた。 江戸時代文政年間に妙詣尼が収玄庵という庵室を開き、安国論寺の日勇によって再興されている。 大正12年には、光則寺の日慈が本堂を再建した。 |
名越切通を越えて鎌倉に入った日蓮が水を求め、持っていた杖で地面を突き刺したところ湧き出したとされる。 |
日蓮の持っていた杖が根付いたと伝えられる山桜。 安国論寺の御小庵横に植えられている。 |
佐渡に流されていた日蓮は、1274年(文永11年)、赦免されて鎌倉に戻った。 平頼綱に蒙古襲来について問われて「襲来する」と予言し、幕府に対して法華経を立てるよう要請したが、相手にされなかったという(この年に一回目の元軍の襲来を受けている(文永の役)。 日蓮は、同年、弟子の領地である身延を寄進され久遠寺を建立し入山した。 1281年(弘安4年)には、元軍による二回目の襲来があった(弘安の役)。 1282年(弘安5年)、常陸へ湯治に行くため身延を下山するが、武蔵国池上宗仲邸で死去し、身延山に葬られている(参考:池上本門寺)。 |
池上本門寺 (日蓮入滅の霊跡) |
洗足池 (日蓮伝説の池) |
日蓮袈裟掛けの松 |
日蓮の寝姿石 (江の島岩屋) |
本覚寺の二代日朝が身延山から日蓮の遺骨を分骨したため、鎌倉の本覚寺は東身延と呼ばれている。 |
|