木曽義仲の妾巴御前と戦った畠山重忠 |
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『吾妻鏡』によると、1184年(寿永2年)1月20日、源頼朝に木曽義仲追討を命ぜられた源範頼と源義経は、それぞれ瀬田と宇治から入洛。 河越重頼・河越重房(重頼の子)・佐々木高綱・畠山重忠・渋谷重国・梶原景季らを連れて、後白河法皇が幽閉されていた六条殿に参じて護衛にあたっている。 『源平盛衰記』によると、重忠は「武蔵国の住人秩父の末流、畠山庄司重能が一男次郎重忠、生年二十一」と名乗ったのだという。 |
『源平盛衰記』によると・・・ 御所警護にあたっていた重忠だったが、義仲を討ち漏らしはしないかと心配で、三条河原の西端まで出てみると、義仲は三条白河を東へ向って退却中だった。 重忠が引き返すよう声をかけると・・・ 義仲は引き返して、川を隔てて射合うが、僅か十三騎しか従えていなかった義仲は退却。 重忠が追撃すると、義仲も反撃し、半時ほど戦った。 そこへ現れたのが一騎の武者。 弓も太刀も強く、馬を走らせながら攻めかかってくるので、さすがの畠山軍も引いてしまう。 重忠が家臣の榛沢成清に誰かを問うと、 「義仲の乳母夫・中原兼遠の娘で巴という女です。 義仲の四天王と呼ばれた樋口兼光・今井兼平の姉妹で、義仲の妾となり、戦では不覚を取ったことがないという恐ろしい者です」 と答えた。 重忠は、巴を捕虜とするため軍を引き返させて、巴に近づき、弓手の鎧の袖に手をかけたのだが・・・ 巴が馬に一鞭あてて鐙を蹴ると、鎧の袖は引きちぎれたのだという。 「これは女ではない。 鬼神の振舞いである。 このような者に矢でも射籠められて永代に恥を残さぬよう引くに過ぎたる事なし」 として退却し、院御所へ帰ったのだとか・・・。 |
「太刀 銘有綱」は、巴御前が帯びていたと伝えられている太刀(個人蔵)。 |
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